阿南姫~二階堂家の須賀川城主となった戦国時代の姫


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 阿南姫(おなみひめ)は、米沢城主・伊達晴宗の長女として1541年に生まれた。兄に岩城親隆、弟に伊達輝宗らがいる。
 母は正室・久保姫(岩城重隆の長女)。
 この母は、奥州一の美少女とうたわれ、伊達家や相馬家と嫁ぎ先を巡って軍事的な争いに発展したことでも知られる。
 19歳の頃、伊達晴宗に嫁ぐとすぐに、阿南姫が誕生した。

 阿南姫は55000石の須賀川城主・二階堂照行の嫡男・二階堂盛義へ嫁いだ。
 嫁いだ時期は、不詳だが1558年~1560年頃と推定される。
 なお、二階堂盛義の母は、伊達輝宗の妹であり、もともと従妹同士であり、伊達政宗から見ると叔母になる。

 1561年に長男・二階堂平四郎(後の蘆名盛隆)が誕生し、1570年には次男・二階堂行親が生れた。

 この頃の二階堂家は、南からは佐竹義重、北からは蘆名盛氏や田村隆顕からの切迫を受けていた。

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 1563年には、蘆名盛氏が二階堂家の岩瀬郡を攻めると、伊達晴宗が二階堂家を支援するため陽動作戦を取り、桧原峠から進入を試みるも岩山城主・穴沢信徳に撃退されて失敗。

 そんな中、1564年9月18日、二階堂照行が死去し、二階堂盛義が家督を継いたが、1566年2月20日、蘆名盛氏と蘆名盛興に松山城と横田城を攻略され、横田城主が捕えられた。
 その為、二階堂盛義は蘆名家に降伏し、人質として嫡男・二階堂平四郎(7歳)が人質として黒川城に送られた。
 これを受けて、伊達晴宗も蘆名家との和睦を模索すると、蘆名盛興に伊達晴宗の四女・彦姫(伊達輝宗の養女)の嫁がせる条件を蘆名盛氏が示し、伊達家と蘆名家も和平となった。

 1574年1月、田村隆顕が岩瀬郡河東郷に侵攻すると、3月下旬に、芦名勢の援軍を得て、岩瀬郡越久と安積郡富田において田村家と戦ったが、5月中旬に、芦名家が安積郡福原にて800人が討死し、田村家に敗れている。
 1574年6月5日、蘆名盛氏の嫡男・蘆名盛興が29歳の若さで急死すると、後継者がいなかったため、人質であった二階堂平四郎が、蘆名家に入ることになる。
 そして、1575年に蘆名盛興の未亡人・彦姫(25歳?)(叔母にあたる)が、二階堂平四郎の正室になる形となり、二階堂平四郎は蘆名家の養子となって、蘆名盛隆(15歳)と称した。

 1576年秋には、蘆名家の片平城が田村隆顕と小浜城主・大内義綱に攻められて、芦名家・二階堂家と二本松義継(畠山義継)が応戦するもも敗れ、安積郡南東部の大半が田村領となっている。

 1577年7月、二階堂盛義と芦名盛隆の父子は、佐竹義重と石川昭光の加勢を受けて、安積郡に侵攻し田村清顕を日出山にて破り奪還した。

 1580年3月、二階堂盛義は下小山田の戦いで田村清顕に大勝利し、そのまま田村郡に侵攻し、大平城を陥落させた。
 1580年6月17日、蘆名盛氏が死去(享年60)し、蘆名盛隆が実権を掌握。

 しかし、1581年8月26日、阿南姫の夫・二階堂盛義が病により急逝した。38歳とも。
 阿南姫は尼となり大乗院と号した。

 二階堂家は、次男の二階堂行親が8代目当主となったが、1582年に13歳で死去。(1585年に16歳で没したとする文献もある)

阿南姫が須賀川城主に就任

 二階堂行親はまだ若く、子がいなかったため、二階堂家は家老・須田盛秀が実質的な須賀川城代となり、二階堂家の当主としては阿南の方(大乗院)が須賀川城主として領内を統治する事となった。

 黒川城の蘆名家では1584年10月6日に、黒川城内で蘆名盛隆も享年23で暗殺されてしまい、以後、彦姫が蘆名家をまとめている。

 その後、伊達輝宗から家督を譲られた伊達政宗は、これまでの同盟関係を破棄して、蘆名攻めを敢行。
 この実家である伊達家が、突然敵意を向けてくることになったのは、本当に青天霹靂であっただろう。
 普通の正室ならば阿南姫は伊達家に戻されたりしてもおかしくないのだが、伊達家の娘は彦姫と言い男性武士のような勇猛さを備えており、伊達政宗を恨んで敵対する。

 1585年11月の人取橋の戦いで、蘆名の亀王丸(彦姫)・二階堂の阿南姫は、佐竹義重・佐竹義宣・岩城常隆・石川昭光・白川義親・白川義広・相馬義胤らと連合を組み、伊達政宗に対抗した。

 1589年6月、摺上原の戦いにて、蘆名家が伊達政宗によって滅ぼされると、二階堂家はなんども伊達政宗から降伏勧告を受けた。

 阿南姫は頑強に拒否し、塩田政繁、遠藤勝重、須田盛秀、守屋俊重、高久田義兼ら家臣と共に、佐竹勢の援軍を受けて抵抗。
 しかし、1589年10月26日に須賀川城は1日で落城した。

 なお、阿南姫は阿南姫は自害しようとしたところ伊達勢に確保され、信夫郡の杉目に住まいを与えられたがこれを嫌い、甥の岩城常隆を頼っている。

 その後、1590年に岩城常隆が死去すると、甥の佐竹義宣の庇護を受け、1602年、佐竹家の転封に伴い出羽に赴く途中、懐かしい須賀川付近で病に罹り、長禄寺にて死去した。享年62。
 戒名は大乗院殿法岸秀蓮大姉。
 墓所は須賀川の長禄寺。

 なお、阿南姫と言うのは、そのように呼ばれていたとの伝承によるもので、文献などでは大乗院としか確認できていない。

 

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