石川昭光 伊達一門筆頭となった政宗の伯父

石川昭光

伊達家16代目当主、伊達輝宗には多くの兄弟がおり、輝宗以外は他家へ養子としていきました。
養子となり名を変えても伊達一門として主家に忠誠を誓う兄弟もいましたが、中には養子先の事情により対立した人物もいました。

その人物は石川昭光(いしかわ-あきみつ)。

今回は石川家の人間として生家と対立した昭光の生涯を追ってみたいと思います。

石川氏の家督を継ぐ

石川昭光は天文19年(1550)、伊達晴宗の四男として誕生します。
そして10歳を過ぎた永禄6年(1563)には陸奥国石川群(現在の福島県)三芦城主、石川晴光の養嗣子(後継ぎとなる養子)に迎え入れられます。


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当時の石川氏は自身の領地を蘆名盛氏と田村隆顕(たむら-たかあき)の勢力争いに巻き込まれる形で奪われていき、さらに勢力を伸ばしてきた佐竹氏が勢力拡大のために石川氏が治める領地へと進軍している状態でした。

このように晴光は諸勢力の侵攻によって圧倒的不利な状況となってしまったので晴宗を頼り、昭光が養子となりました。

晴光には光専と光広と2人の子がいたのですが、石川氏の存亡のために養子である昭光を嫡子として添えたことに、晴光が切羽詰まった状態だったことが伺えます。

しかし晴宗に援軍を求めたものの、距離の問題で求めることが難しく、永禄10年(1567)に佐竹義重によって三芦城を落とされてしまいます。

この時、晴光と昭光は昭光と義重の祖父に当たる岩城重隆のもとへ逃れました。
翌年には晴光の隠居に伴って家督を継ぎました。

そして、永禄12年(1569)に重隆の力添えによって三芦城へ戻れています。

他勢力の抗争に巻き込まれる

一波乱あって居城に戻れた昭光でしたが、天正2年(1574)には蘆名盛氏と佐竹義重が白河結城氏と石川氏の領土をめぐって争い、昭光は領土を奪われてしまいます。
この時昭光は義重に従属したことで三芦城へ2度目の帰城を果たしました。

その後、昭光の兄である伊達輝宗の活躍によって石川氏・蘆名氏・佐竹氏・白河結城氏の4勢力の講和が成しえました。

しかし、同年に田村隆顕の後継ぎ、田村清顕(たむら-きよあき)が蘆名領を攻めた事で状況は一変。
輝宗は昭光と協力して清顕の対処を行おうと考えていました。しかし、昭光は蘆名氏を敵とみなして清顕と同盟関係にあった義重に従いました。

これには昭光の養父、晴光の妻が田村氏の出身だったことが要因と考えられています。

ところが、天正4年(1576)に清顕が義重との同盟を破棄し、蘆名盛氏と同盟を結び、翌年には田村・蘆名連合軍が石川領に侵攻を受けています。

その後天正8年(1580)に盛氏が亡くなると蘆名氏の方針が大きく変わり、佐竹氏と再度同盟関係となっています。

甥の伊達政宗と敵対

天正12年(1584)になると、伊達氏も輝宗から伊達政宗へ家督を譲ったことで方針も大きく変わり、以前は同盟関係だった蘆名氏と敵対関係となります。
翌年には佐竹氏が率いる南奧諸大名連合と伊達軍との戦い(人取り橋の戦い)が勃発しました。
この時昭光は甥の政宗に味方はせず、南奧諸大名連合の1人として戦いました。

昭光のその状態も天正17年(1589)までで、この年に起きた摺上原の戦いで蘆名氏を降伏させると、佐竹氏に見切りをつけ昭光も降伏し、以後は政宗に仕えます。


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そして天正18年(1590)の小田原攻めでは政宗に出陣を止められていたので、刀剣や馬を託したものの、豊臣秀吉より出陣していないことを咎められ領地没収の処分を受けてしまいます。

伊達家の御一門筆頭に

その後、岩出山城(現在の宮城県大崎市)に転封した政宗に拝謁したことで松山城と6,000石をもらい、御一門筆頭の家格も貰いました。

そこから昭光は文禄3年(1593)の文禄の役に出陣し、文禄5年(1595)に帰国と同時に豊臣秀次謀反事件に政宗が関わっていた疑いが出てしまったので、疑いを晴らすために政宗と共に京都へ出向いています。

そして、慶長3年(1598)には4,000石加増を受け、伊達成実(だて-しげざね)が出奔するまで治めていた角田城(現在の宮城県角田市)をもらい受けます。

慶長5年(1600)に起きた白石城の戦いでは嫡男の石川義宗(いしかわ-よしむね)と共に出陣し、上杉勢を撃退しています。

嫡孫の後見人として

慶長8年(1603)になると昭光は義宗に家督を譲り隠居しましたが、慶長10年(1610)に34歳で義宗が病死してしまったので、若年の嫡孫石川宗敬(いしかわ-むねたか)の後見人として執政に携わりました。

その後慶長19年(1614)の大坂冬の陣にも参陣しました。しかし、翌年の大坂夏の陣には病気のため出陣せずに家臣に指揮を任せています。


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昭光は元和7年(1621)に宗敬に家督を譲り、隠居の身になります。そして翌年の元和8年(1622)に、角田城にて73歳でこの世を去りました。

寄稿(拾丸)

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