伊達実元 伊達成実 伊達家の優秀な武将

伊達実元とは

伊達実元(だて-さねもと)は、1527年生まれで、母は中条定資の娘?とされます。
最初、縁戚でもあるる越後守護・上杉定実の養子に入る予定となり、上杉定実から一字を拝領し伊達実元と名乗ります。

しかし、1542年6月、越後に向かう伊達実元に家中の精鋭100騎を随行させようとした父・伊達稙宗に反発した、兄・伊達晴宗が重臣・中野宗時と桑折景長らの後押しを受けて、鷹狩りから帰る途中の父・伊達稙宗を西山城に幽閉します。
程なくして小梁川宗朝により西山城から救出された伊達稙宗は、嫡男・伊達晴宗に対して兵を向け、奥州全体を巻き込む形での「天文の乱」が勃発します。

伊達実元は父・伊達稙宗に属して福島の信達地方で奮戦しますが、1547年に蘆名盛氏が伊達晴宗に寝返り戦況が不利となります。
そして、1548年9月、将軍・足利義輝の仲裁を受けて、父・伊達稙宗は伊達晴宗に降伏し、家督を譲られた伊達晴宗は、父・伊達稙宗を丸森城に隠居させました。


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伊達実元の上杉家へ養子入りして、上杉氏を継ぐ話も立ち消え、桑折西山城の兄・伊達晴宗が米沢城を本拠地とすると、兄・伊達晴宗の2娘(鏡清院)を正室に迎えて、兄と和解した伊達実元が大森城主として伊達領の南方となる信達地方の統治を任されました。
下記写真は大森城の遠景です。

大森城の遠景

1564年、甥・伊達輝宗が、最上義光の妹・義姫を娶り、伊達家の当主となると、田村清顕や、相馬盛胤相馬義胤との戦いにも出陣し、近隣の小大名を伊達家の支配下へと組み込み、伊達家の安定に尽力しています。

1567年、伊達政宗が米沢城にて誕生。

伊達成実とは

1568年、伊達実元の嫡男・伊達成実が誕生。
伊達成実(だて-しげざね)は、時宗の僧・了山和尚(専念寺住職)にから学問を学んでいます。

1579年、嫡男・伊達成実(12歳)が大森城にて元服。(烏帽子親は伊達輝宗)


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1583年、嫡男・伊達成実に家督と大森城を譲ると、八丁目城に隠居し「棲安斎」と号しました。
ただし、隠居したあとも、伊達一門の長老として外交・調略に従事し、伊達成実と共に、伊達政宗の片腕として活躍し、苦境を救っています。

1584年、粟ノ須の戦いにて伊達輝宗が、二本松城主・畠山義継と共に最期を遂げ、1585年の人取橋の戦いでは、敗走する伊達政宗(19歳)の退却戦では伊達成実(18歳)が奮戦し貢献しました。

なお、渋川城に在城していた際の火災で、伊達成実は右手に大火傷を負っています。
ちなみに、伊達成実の正室は亘理御前(亘理重宗の長女)で、継室は岩城御前(二階堂盛義の娘)ですが、跡継ぎは早世したのか恵まれていません。

大森城本丸跡

1586年、伊達政宗が二本松城を攻略すると、伊達成実が二本松城主38000石となった為、大森城主には片倉景綱(片倉小十郎)が赴任しています。

1587年4月16日、隠居していた伊達実元が八丁目城にて死去。享年61

二本松城の伊達成実は、1588年の郡山合戦なて、蘆名義広の攻勢をしのぎ、また大内定綱を調略して帰参させました。
1589年、摺上原の戦いでは、突出してきた敵の側面を強襲して劣勢を覆えすなど、伊達勢の主力として活躍し伊達政宗のもと、数々の軍功を挙げます。


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あい
1590年5月、伊達政宗(24歳)が豊臣秀吉の小田原攻めの際に、小田原へ馳せ参じた際には、伊達政宗の留守を伊達成実が会津・黒川城にて守りました。

葛西大崎一揆に従軍した伊達成実ですが、一揆煽動が露見して伊達政宗が上洛を命じられると、国分盛重と共に蒲生氏郷への人質として伊達成実は名生城に入りました。

1591年、伊達家は150万石から58万石に減封となり、伊達政宗が岩出山城(岩手沢城)に入ると、伊達成実は田手宗実の旧領を与えられて角田城主となりました。

1592年からの文禄の役にも従軍したあとは、伊達政宗に従い伏見の伊達屋敷に駐在しています。

1595年6月4日に、伊達成実の正室・亘理御前が伏見にて死去。

その後、伏見に滞在していた伊達成実は突如として伊達家を出奔します。
そのため、角田城は岩出山城留守居役の屋代景頼によって接収されましたが、この時に抵抗した伊達成実の家臣・羽田実景ら30人余が討死し、伊達成実の家臣団も解体されました。

なお、出奔した時期は詳しくわかっておらず、28歳だった1595年秋から1598年までの諸説があります。


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また、出奔先も高野山であったり、相模国糟谷(伊勢原市)とする説もあり、出奔理由も禄高も少ない事への不満、豊臣秀次事件での伊達政宗への連座を避けるため?など、諸説あります。

1600年、関ヶ原の戦いの際には、上杉景勝が禄高5万石で伊達成実を誘っていますが「本来ならば家臣筋の家に仕えるつもりはない」と拒否していますので、禄高に不満があったと言う事ではなさそうです。

また大久保忠隣が仲介して徳川家康からも誘いを受けていますが、伊達政宗の奉公構による妨害を受けています。

しかし、1600年の秋に、伊達政景(留守政景)や片倉景綱らの説得を受けると伊達家に帰参し、7月の白石城の戦いにも石川昭光の軍勢として参加したと言われています。

1602年12月30日、片倉景綱(片倉小十郎)が白石城主となったため、空席となった亘理城(亘理要害)に入り、伊達成実(35歳)は6113石となりました。

その後、伊達成実は1606年に伊達政宗の娘・五郎八姫と、徳川家康の6男・松平忠輝の婚礼の使者となり、1613年には加増されて10000石となっています。
大坂冬の陣、大阪夏の陣にも参陣し、1622年の最上家改易では、野辺沢城の接収なども担当しました。

1636年に伊達政宗が没したあとは、第2代藩主・伊達忠宗から伊達成実は長老として重用され、領内の開発、灌漑設備、岩地蔵用水の全面的改修、鳩原用水を新設、鳥屋崎浜・箱根田浜・長瀞浜・大畑浜の塩田開発などにも尽力。

洪水対策費用を借りた御礼にと、1638年、伊達忠宗の名代として江戸に赴いた伊達成実は、奥羽での軍談を所望され、人取橋の戦い物語り、御簾を隔てて聞いていた将軍・徳川家光から感銘を受けたとされます。

1639年には、跡継ぎとして伊達政宗の9男・伊達宗実を養子に迎えました。


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1646年2月9日、養嗣子・伊達宗実に家督を譲った伊達成実は、1646年6月4日に死去。享年79。

墓所の大雄寺の伊達成実霊屋です。

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コメント

  • コメント ( 3 )

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  1. 山田久夫

    大森の住人です。なかなかよくお調べになられましたね!
    ところで、南朝方として戦い敗北した伊達氏ですが、北朝方の室町幕府のもとで陸奥守護職に就けたのは何故でしょうか。天文の乱の後に伊達稙宗は陸奥守護職を解かれてしまいましたね。
    室町時代の歴史は意外な展開があり、面白いですよ。研究してみませんか。史料の蓄えがあります。

  2. 山田さま
    コメント、誠にありがとうございます。
    研究の題材も賜りまして誠に恐縮です。
    ありがとうございます。
    しかし、只今は、九州を中心に追跡しております関係で、東北は今後の課題となっております。
    是非、山田さまにもご協力を賜りまして、ご寄稿を賜りたいくらい、手が足りない状況でございます。
    お察し願えますと幸いです。
    また、何かございましたら、お知らせ願えますと嬉しく存じます。
    高田

  3. 山田 久夫

    古代多賀城は加美郡にあり江戸時代に多賀城跡とされた所と全く関係ありません。多賀国府説は江戸時代に創作された話です。陸奥国府が信夫郡にあったことは大同五年の太政官符の行程情報から推定されます。国府の近くに岩切城と呼ばれた城があったことは確かだと思います。
    1341年  歴応四年正月十三日【石塔義房軍勢催促状】(北朝方)
    為対治凶徒発向之間、可被警固岩切城也、若雖為片時有懈怠者、可処罪科之状如件、歴応四年正月十三日 沙弥(石塔義房 花押)
    佐藤十郎左衛門入道殿(性妙)
    この岩切城が大森城だと思います。岩を切り空堀を作った跡や金採掘のための坑道跡が見られます。
    多賀城国府説のために多賀城跡に近くの高森城を岩切城と改名したものと考えられます。
    737年の続日本紀の行程、地名の関係を地形図上で確かめると加美郡に多賀柵が存在したことがわかります。長者ヶ原パーキングより南の宮沢遺跡が古代多賀城跡と推定されます。

    大森城についての記事ありがとうございます。
    陸奥国の古代・中世史は多賀城国府説により歪曲され残念に思っています。737年の続紀を読めば多賀城碑など偽物であることは明らかです。古代多賀柵・多賀城は加美郡にあり、それ以外の場所から多賀城碑がに江戸時代に出土すること自体がる偽物と自白しているようなものですね。
    陸奥国の古代・中世史の通説は根本的な誤りである多賀国府の存在の上に成り立っています。
    である東鑑文治五年の条に多賀国府とありますが発掘調査で該当時代の遺構が検出されませんでした。
    多賀国府や平泉藤原氏説は江戸時代に曲筆が加えられたものでしょう。故事談によれば、藤原基衡も藤原秀衡も國衙の目(さかん)や陸奥守となっています。共に信夫郡に拠点をおいた人物です。平泉とは何の関係もありません。
    陸奥国の古代・中世史解明には藤原緒嗣は重要な人物です。視点が変わると思います。