義姫とは~2度も合戦場に出向いて停戦させるも伊達政宗毒殺事件は捏造か?


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義姫(よしひめ)は、山形城主・最上義守の娘として1547年又は1548年に生まれた。
2歳上の兄に最上義光がおり、義姫とは頻繁に書状を交わすなどし仲が良いことが伺える。

1564年、義姫が17歳のとき、敵対していた米沢城主・伊達輝宗のもとに政略結婚として輿入れした。
米沢城の東館に住み、お東の方・最上御前とも呼ばれている。

米沢城

1565年には、子宝に恵まれるよう、出羽三山の総奥院・湯殿山に登山して山頂に立ち祈願もしている。

1567年8月3日、20歳の時に梵天丸(伊達政宗)を出産。
ある夜に、老僧から体内を宿に貸して欲しいと請われると言う夢を見て、伊達輝宗と相談して宿を貸したと、次の日にその旨話したところ、幣束が体内に宿って懐妊したと言う逸話がある。
そのため、幣束の中でも紙垂が幾つも下がったものを言う梵天(ぼんてん)にちなんで、梵天丸と名付けられた。
1568年には竺丸(じくまる、伊達小次郎)を産んでいる。

ここまでは、戦国大名に嫁いだ普通の正室と言えるが、義姫は違っており「鬼姫」との異名をとる。

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1578年、31歳のときに、夫・伊達輝宗が上山城主・上山満兼と共に、実家の兄・最上義光攻めを開始した。
この時、最上家はかなり不利な状況となり、兄が危険だと悟ると、義姫は籠に乗って、急ぎ戦場へと赴く。
そして、夫・伊達輝宗の陣にて停戦を訴え、伊達勢を撤退させた。

このように義姫は、気が強く男勝りではあるが、頭もよく、政治的にも行動力があり、強い意志を持った女性であった。

1584年、義姫が37歳のとき、伊達輝宗が隠居すると、ともに館山城へ移り、子の伊達政宗が伊達家の家督を相続した。
しかし、1585年、二本松城主・二本松義継(畠山義継)の裏切りにより、粟ノ須の戦いにて伊達輝宗が殺害されてしまう。

粟ノ須古戦場跡

そのため、義姫は米沢にて38歳で出家し保春院と称した。

なお、夫・伊達輝宗を、子の伊達政宗が見捨てたと言う形となったため、義姫は伊達政宗に不信感や嫌悪感を抱いたともされている。
更に、伊達政宗は血縁関係を重視せずに、最上家の本家筋にあたる大崎義隆を攻めたりしたため、不快感を示した。

そのような伊達政宗の行動に対して、当然、義姫の兄・最上義光も伊達家を警戒するようになり、伊達家と最上家の対立が深刻化した。

そして、1588年、大崎合戦では伊達政宗が大崎義隆を攻めたが、最上義光が援軍に駆けつけたことで、伊達政宗は危機的状況に陥る。
この時も、義姫(41歳)は甲冑を身に着けて駕篭に乗って中山峠に現れ、戦場に駆けつけると兄・最上義光に停戦を要求。
最上義光も妹の願いとあっては断れず聞き入れたが、その守られるよう、義姫は双方に睨みを利かせて間に居座り続けたと言う。
その日数は80日間。
80日経過して、伊達政宗と最上義光は和睦した。

ちなみに、最上義光の義光は、そのまま読めば「よしみつ」であるが、和睦後に兄妹でやりとりした書状にて、最上義光が女性向けの書状に記載する平仮名で「よしあき」と署名しているため、義光の読みが判明している。

1589年、伊達政宗は114万石の大大名にまで成長。

伊達政宗毒殺未遂事件

1590年、豊臣秀吉小田原攻めを開始し、伊達政宗が会津黒川城(会津若松城)から小田原へ参陣する直前に、義姫の手の者が毒殺しようと謀ったが、未遂に終わたとされる。
4月5日、陣立ちの祝いの席で、母が用意した膳に手をつけた伊達政宗が急激な腹痛を起したが、急ぎ館に戻って薬を飲んで一命を取り留めたと伊達家の正史「貞山公治家記録」(成立年は1703年)に記載されている。
この時、母から毒殺されそうになるショックを受けた伊達政宗は、義姫が溺愛していた2男・伊達小次郎(伊達政道)を、4月7日に暗殺に関わった疑いで自ら成敗したとされる。
義姫はその晩に黒川城を出て、山形城の兄の元に逃れた。
このように一般的には最上義光の指示を受けた義姫が伊達政宗を亡き者にしようと図ったと言われている。

しかし、この毒殺未遂事件には諸説あったが、1999年に発見された新史料によると、伊達政宗の師である虎哉和尚が、1594年11月27日に岩出山城から京都・大有和尚に宛てた手紙の中に義姫に関する記述がある。
伊達政宗の養育を務めた、愛姫付の片倉喜多が蟄居を申し渡されただけでなく「伊達政宗の北堂(母堂)が、今月四日夜、最上に向かって出奔した」と記載されているのだ。
要するに、義姫が最上家に戻ったのは1590年ではなく、1594年11月4日の夜と言う事になる。

とは言え、1590年に毒を盛ったのは義姫の可能性があり、その裏には最上義光の意向もあったのは間違いなさそうである。
しかし、母を成敗する訳にもいかなかったため、擁立の動きがあった弟を殺害したと言えよう。

1591年、伊達家が惣無事令に違反したとされ、また葛西大崎一揆を煽動した疑いなどにより、58万石に減封となり岩出山城(岩手沢城)に移ったが、この時も義姫は同行した。
そして、1593年には朝鮮に遠征している伊達政宗に対して、陣中見舞金3両や和歌を贈っている。
これに対して伊達政宗は、城普請の合間に朝鮮でようやく手に入れた朝鮮木綿を母に返礼として送っている。
しかし、義姫は、1594年に岩出山城から山形城に移った。
この義姫の山形行きは、駒姫が関白・豊臣秀次の側室となる際の、礼節などを授けに山形に出向いたと小生は見ている。

山形城の東門

ただし、1595年、豊臣秀次事件にて、最上義光の娘・駒姫が刑死し、最上義光の正室・大崎夫人も、悲しみに暮れて自刃。
伊達家も御家取り潰しの危機に瀕したため、帰る機会を失ったのかも知れない。

1600年、関ヶ原の戦いの際に、奥州で起きた慶長出羽合戦では、上杉景勝が最上家を攻めて、長谷堂城の戦いなどになっている。
この時、最上義光は伊達政宗に援軍要請したが、義姫自身も伊達家の重臣・留守政景に対して援軍を急ぐよう書状を出している。

片倉景綱は伊達政宗に対して傍観するよう進言したが、伊達政宗は母の安否を気遣い、援軍を派遣したと言われている。

1614年、最上義光が亡くなり、1622年に最上家が改易・所領没収となると、義姫は伊達政宗を頼って、1623年に仙台城(青葉城)に入った。

仙台城の石垣

晩年には義姫と伊達政宗は完全に和解していたとみられている。
この時、義姫は既に75歳で、足も眼も悪かったようだが、江戸藩邸にいる愛姫に、手製の下げ袋を贈ると感激させたと言う。
そして、7月17日、仙台にて義姫は死去した。享年76。
戒名は保春院殿花窓久栄尼大姉。

京にて訃報に接した伊達政宗は、母を悼む和歌を詠んでいる。

伊達政宗は、十三回忌の際に、若林城の近くに臨済宗少林山保春院を建立して母の菩提を弔った。

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