片倉喜多とは~伊達家を支えた戦国の烈婦

 片倉喜多(かたくら-きた)は、1538年に伊達家臣・鬼庭良直の娘(長女)として生まれた。
 母は本沢真直の娘・本沢直子。

 聡明な女性に育ち、文武両道でもあり兵書を好んだとされる。
 鬼庭良直の剛健さや、母・直子の壮麗さを継いでおり、才気煥発であった。

 母・直子は男児に恵まれず、1549年、鬼庭良直の側室である牧野刑部の娘が男児(鬼庭綱元)を出産すると、この側室が正室になり、母・直子は離縁となった。

 その後、父・直子は喜多を連れて、八幡神社(置賜郡永井庄)の神職・片倉景重と再婚。
 その聡明さに感嘆した片倉景重は、片倉喜多に一通りの教養は勿論のこと、剣、薙刀、弓、軍学をも学ばせ、男にも引けを取らないほどの達人に育てたと言う。
 1557年、異父弟となる片倉景綱を母が産んだ。
 そして、この弟・片倉景綱は、片倉喜多からの教育も受けて育ったという。

 その後、片倉喜多の素質を見抜いた伊達輝宗は、1567年に誕生した嫡男・伊達政宗(梵天丸)の乳母に任命。
 ただし、片倉喜多は独身であったため、良く知られる乳母と言うよりは、養育係を務めたようで、記録でも保姆と書かれている。

 このように、伊達政宗は片倉喜多の強い影響を受けて、奥州の覇者となる大名へと育った。


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1570年に継父・片倉景重と、母・片倉直子と相次いで亡くすと、弟・片倉景綱の母代りとなる。

 弟・片倉景綱は米沢城下で大火があった際の活躍が認められ、1575年に伊達政宗の近侍となり、のち重臣として重用されるようになる。

 1579年に、伊達政宗の正室・愛姫が米沢城に入ると、片倉喜多は愛姫付きになったようだ。

 1586年に実父・鬼庭良直(鬼庭左月斎)が人取橋の戦で討死すると、義姫の計らいにで長井に妙心院が建立され、片倉喜多は父の供養を行うことができた。

 1589年、摺上原の戦いでは片倉家の旗印として「黒釣鐘」を考案し、片倉の名が天下に轟く。

 1594年に愛姫が事実上の人質として、京へ上洛して伏見・伊達屋敷に赴いた際には、動向している。
 そして、片倉喜多の評判を聞いた豊臣秀吉は拝謁を許し「少納言」と賞賛している。

 しかしながら、そのあと伊達政宗の勘気をこうむり、国許で蟄居を命ぜられた。

 原因は不明だが通説では

 豊臣秀吉が伊達政宗の側室・藤姫(侍女とも?)に横恋慕し、献上するよう命じたが、伊達政宗の留守中であり、奥を預かる片倉喜多の一存で承諾したからとされている。

 以後は、弟・片倉景綱の佐沼城外にて謹慎し、その後、亘理城外に移ったが、1602年に片倉景綱が白石城主となると従って移っている。
 そして、刈田郡蔵本邑勝坂に「喜多庵」を構えて余生を過ごした。

 1610年7月、滝の観音堂にて死去。享年72。

 墓は宮城県白石市の片倉家墓所。法名は円同院月隣妙華大姉。

 伊達政宗は妙心院を仙台に移して喜多を開基とし、菩提を弔った。

 のちに愛姫の願いもあり伊達忠宗の命を受けて、愛姫の従兄弟・田村宗顕の子である田村定広が、喜多の片倉家の名跡を嗣いで片倉姓を名乗っている。
 この片倉定広(田村定広)には、真田幸村の娘・阿昌蒲が嫁いでいる。

 と言う事で、宮城県白石市にある片倉家墓所の片倉喜多の墓へお参りして参りました。

片倉喜多の墓

 片倉喜多の墓は、片倉家の正式な墓所の中ではなく、約100mのところに片倉喜多の廟所としてぽつんとありますが、生涯独身を貫いた戦国時代の女性としては大変立派な墓所でした。

片倉多喜の墓

 道路側の登り口から入ってすぐの中間地点には観音堂があり、更に階段を少し登ると、片倉多喜の墓があります。

片倉多喜の墓

 片倉多喜の墓がある場所は、下記の地図ポイント地点となります。
 地図は縮尺を変えてご覧ください。
 駐車場の情報は、下記にてご紹介している「田村家の墓所」にてご確認願います。

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