粟ノ須の戦い
伊達政宗が畠山義継(二本松義継)に捕らわれた父・伊達輝宗を救出しようと戦った場所が、この「粟ノ須古戦場跡」です。
ドラマなどでは、阿武隈川の河川敷のような雰囲気の場所で、涙ながらも鉄砲を撃ちかけるシーンが印象的ですが、粟ノ須古戦場跡はぜんぜん川の近くではありません。
三春城から二本松城へと繋がる間道近くと言え、宮森城から現在の道路を通行する距離で粟之巣までは約7kmの地点となります。
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1585年10月8日、伊達政宗に降伏した畠山義継(二本松義継)は、和議を仲介してくれた伊達輝宗の尽力に謝意を伝える為、伊達輝宗が滞在していた宮森城を訪れます。
しかし、伊達輝宗が見送りに出た所を突如拉致して、畠山義継(二本松義継)は約12km離れている二本松城へ連れ帰ようとしました。(粟之巣の変・高田原の変)
この時、19歳だった伊達政宗は、近くで鷹狩りをしていとされ、急報を受けると直ちに畠山義継(二本松義継)を追撃します。
伊達政宗が追いついたのは阿武隈川河畔の安達郡平石村高田あたりと伝わり、その場所がここ「粟ノ須古戦場跡」と言う事になります。
粟ノ須は「あわのす」と読みます。
伊達政宗は、鉄砲にて畠山義継(二本松義継)の一行23名を銃撃したことにより、父・伊達輝宗も死亡したとされます。
これには諸説あり、最期を悟った畠山義継が伊達輝宗を殺害したあと、自刃したとも、伊達輝宗が「自分もろとも義継を撃て」と伊達政宗に命じたとも言われています。
また、鷹狩りに出ていたのに、多数の鉄砲を備えていた疑問点から、伊達政宗による父殺しの陰謀であると言う説もあります。
怒りが納まらない伊達政宗は、畠山義継の亡骸を小浜城近くの小浜川にて斬り刻んだ上、藤の蔓で吊るしたと言われています。
そして、この事件を契機に人取橋の戦いへと繋がるのです。
二本松市の称念寺には、畠山義継ら粟ノ須の変で戦死した家臣23名が眠っています。
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