千宗恩の解説~堺の茶人で商人である千利休を支えた妻(女性)を2分でわかりやすく

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戦国武将列伝Ω

千宗恩とは

千利休の後妻・宗恩(そうおん)は、戦国時代の女性で生年不詳。
名は「おりき」で、元は能役者・宮王三入(観世流の小鼓の名手)の妻。ただし、近年は松永久秀の妻であったとする説もある。
千利休は、この宮王三入から能を習い、親しくしていたようで、1553年頃に宮王三入が病没すると、残された宗恩と子の男子(後の千少庵)の面倒を見ていたようだ。(宗恩を側室のような立場で迎えたとも考えられる。)

千少庵(せんのしょうあん)は先天的に片足に障害を持っていたようだが、1576年頃に千利休の6女・お亀と結婚して、千利休の養子となった。
千少庵は「柔・静の茶」と呼ばれ、穏やかで円満な性格は誰からも好かれ、千利休の後継者とも目されたようだが、1587年の有名な北野大茶会では、千利休の次には千利休の嫡男・千道安の名が見られ、千少庵の名は8番目と、千利休本人は後継者として認めていなかったようだ。

翌年、1577年に千利休の妻・宝心妙樹が亡くなると、宗恩は千利休の後妻にと1578年に再婚した。利休との間にも二子を設けたが、いずれも早世している。

千宗恩は新たな袱紗さばき提案するなど、茶道具や茶事の工夫に優れ、自身でも茶の湯に精通し、千利休のよい補佐役、理解者であったと言われている。


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1578年には、千少庵とお亀の子・千宗旦(せん の そうたん)が誕生。
1588年頃には、千利休の希望もあり、千宗旦は大徳寺で仏門に入った。
なお、千少庵とお亀の夫婦仲は悪かったようで、2人は別居していたが、千少庵が千利休に連座して、会津の蒲生氏郷のもとに蟄居を命じられた際に、お亀は別居先から駆けつけている。
1594年、徳川家康と蒲生氏郷のとりなしもあって、千家再興が叶うと千少庵は仏門に入っていた千宗旦を還俗させた。豊臣秀吉は、千利休から召し上げていた茶道具を千宗旦にすべて返還したと言う。千宗旦は、祖父・千利休の最後を肝に銘じ、生涯仕官せず「乞食宗旦」と呼ばれたほど清貧に甘んじたと言う。

1600年3月6日、千宗恩が死去。大阪の藤田美術館には宗恩が縫ったとされる仕覆(茶器を入れる巾着袋のような物)が残されてる。

その後、千宗旦の次男・千宗守が「武者小路千家官休庵」を、三男・千宗佐が「表千家不審庵」を、四男・千宗室が「裏千家今日庵」をそれぞれ起こし、千利休の茶湯作法は現代まで残っているのだ。

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