志賀親次と岡城~荒城の月の舞台でもある見事な山城の岡城


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岡城(おかじょう)は、豊後(大分県竹田市)にある梯郭式山城で、臥牛城、豊後竹田城、豊後・岡城とも言います。
標高は325m、比高95m、山城としての規模的には大きな城域を持ち、瀧廉太郎が「荒城の月」の作詞をした舞台として良く知られますが、なるほど荒れ果てた城とは言え風格がにじみ出ています。

最初の築城は伝承となりますが、源頼朝に追われた源義経を迎えるために、1185年に緒方惟義が築いたと伝わります。

その後、南北朝時代の1334年に後醍醐天皇の支持を受けた大友一族・志賀貞朝が改修し「岡城」と呼ばれるようになりました。
志賀貞朝は木牟礼城(騎牟礼城)が本拠でしたが、1369年に豊後・岡城主になったようです。

耳川の戦いで敗れて、大友宗麟は衰退しますが、1586年、薩摩の島津義弘率いる島津勢が岡城に迫っても、志賀親次は見事島津勢を撃退していたことから、豊臣秀吉より褒状を受けています。

この時の岡城主・志賀親次(しが-ちかつぐ)は、1566年に志賀親度の子として生まれていました。
母は大友宗麟の娘(奈多夫人の連れ子)です。

1584年9月に父・志賀親度が主君・大友義統と不和となり失脚すると、武勇に優れた志賀親次が、19歳の若さで家督を継ぎ、南郡衆を受け継ぎました。
キリスト教を信仰したようで、1585年にはドン=パウロという洗礼名を受けています。
12歳の頃、大友義統の奥方の侍女で、キリシタンのイザベル(洗礼名)と言う娘が追われて、志賀家にやってきたと言います。
この時、イザベルが十字を切る姿を目撃した志賀親次は、キリスト教を教えてもらったとされています
しかし、大友宗麟の妻・奈多夫人は仏教徒でキリスト教政策とは対立していたことから、すぐには洗礼を受けられなかったようです。

先にご紹介したように、1586年に薩摩勢が攻めてきた際には、父・志賀親度や他の南郡衆は島津家に味方しています。
諸城が次々と落城する中、勇敢にも志賀親次は少ない兵で居城・岡城を守り、勇猛で知られる島津義弘や、鬼武蔵の異名を誇った新納忠元らの大軍を何度も撃退しました。

その後、豊臣秀長の援軍が豊後に上陸すると、反抗していた南郡衆を滅ぼすなど奪われていた諸城を奪還し、父・志賀親度を自刃に追い込んでいます。

見事な采配をした志賀親次を豊臣秀吉は絶賛し、敵将の島津義弘が「楠木正成の再来」と評したことから「天正の楠木正成」「今楠木」とも絶賛されます。

そのあと、祖父・志賀親守の後見を受け、岡城を更に整備し、所領の経営にも着手。
志賀親次は、名族であり、尚且つ抜群の武功もあったため、大友家の中で発言力を強めたことが、やがて主君・大友吉統(大友義統)から疎まれます。

大友宗麟の死後にキリスト教は禁教となりますが、志賀親次は棄教を拒否し、豊後におけるキリシタン信仰者を保護しました。
大友義乗(大友義統の子)の大阪城を訪問した際に、志賀親次も随行し、豊臣秀吉の謁見の際には、田原親賢より上座に座しましたが、この時、国元にいた大友義統は宣教師らを豊後から追放しています。

ちなみに、1592年、文禄の役にて、撤退したことが敵前逃亡とみなされて、主君・大友義統は改易されることになりますが、その原因を作ったのは志賀親次となります。
小西行長から救援要請を受けると、大友義統は黒田官兵衛に相談に赴きます。
その大友義統が不在の際に、小西行長が討死したという誤報が入ったため、その誤報を信じて撤退を進言したのが、志賀親次と言も言われています。
この時、吉弘統幸と田原親家は退却に反対した為、大友勢は混乱に陥り、一部がパニックになり勝手に退却を始めたと言うのが正しいようです。
しかし、その後、志賀親次は処分を受けていないため、退却を本当に進言したのかは不明瞭な部分もあります。

大友義統が所領を失った結果、家臣のほとんども先祖伝来の地を離れる事になりました。
宣教師たちは志賀親次を絶賛し「フロイス日本史」での大友家に関する記述は、このときに志賀親次が仕官先を求めて上京するところで終わっています。
このように、1593年、大友家の重臣であった志賀親次も岡城を去りました。

その後、志賀親次は蜂須賀家政に仕えると、日田郡大井の荘にて1000石を与えれました。

1600年、関ヶ原の戦いでは、西軍として広島城から出陣した大友義統が九州へ入り杵築城を攻撃すると、多くの旧臣らが大友義統に合流。
志賀親次も石垣原の戦いにて支援するも、大友勢は中津城から出た黒田官兵衛や、松井康之らに敗れます。

その後、志賀親次は、福島正則小早川秀秋、再び福島正則、毛利輝元と主君を変え、95歳で(一説では93歳)の時に山口県宇部市にて死去しました。

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岡城のその後

さて、志賀親次が退去したあとの岡城には、1594年2月に播磨・三木城から中川秀成(中川清秀の次男)が7万4000石にて入りました。
志賀氏の館を仮の住居とし、3年がかりで石垣を用いた大規模な改築を施しています。

縄張設計は石田鶴右衛門、三宅六郎兵衛、石垣普請に山岸金右衛門などの名が見られ、城下町としては竹田町が整備されました。
岡城の拡大は、2代藩主・中川久盛、3代藩主・中川久清の代にも改修が行われ、明治維新まで続きました。
下記は岡城の本丸跡となります。
結構な広さがあります。

第5代藩主・中川久通は、岡城の北側にある絶壁に、弦長約3mもの三日月を彫らせ、月のない夜でも明かりを灯し、月見の宴を楽しんだとされます。

下記は岡城からの展望ですが、高い石垣の上には柵もなく、ちょっと恐怖感も味わえます。
ただし、お子様は落ちないように保護者の方がしっかり見ている必要性があるところです。

岡城は稲葉川と白滝川の間にあり、石垣や曲輪などしかない、建物は復元されていない城跡ですが、国指定史跡として整備されています。

その他の写真は、残りの写真ページに入れておきたいと存じます。
残りの岡城の写真集

さて、岡城へのアクセスですが、駐車場は下記の地図ポイント地点となります。

地図は自由に縮尺を変えてご覧願います。

「荒城の月」瀧廉太郎の銅像です。
本丸に入る石垣脇の曲輪の北側にありました。

電車の場合ですが、豊後竹田駅からだと、徒歩で上記の駐車場まで約1.6km、約20分といったところです。

総役所跡となる約120台の駐車場には、有料入場の窓口がありますので、支払いを忘れずに済ませましょう。
絵巻型の散策地図も頂けますが、入城手続きは9時~17時までとなっています。

その駐車場から大手門・近戸門と険しい城道を登り、城内の役所・家老屋敷跡を横目に本丸・二の丸・三の丸まで往復で約30分と規模が大きい割には短時間で巡りやすいです。
全体の岡城観光所要時間は、私の場合で40分でした。
入口の建物脇に杖がありましたので、きつい坂道があるのかな?と、トレッキングポールを持って行ったのですが結局使いませんでした。

岡城から北方にある碧雲寺が中川家の菩提寺で、隣にある「おたまや公園」には歴代藩主の墓があります。
下記の中川秀成の記事にて碧雲寺などもご紹介しています。

残りの岡城の写真集
中川秀成と虎姫とは~周りに惑わされることなくお互いを理解したふたり
大友宗麟(大友義鎮)~国崩し・豊後の王
大友義統とは~逃亡・改易・失脚・幽閉となった稀代の凡将?
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