三井景国(三井覚左衛門景国) 最後まで真田幸村に従った忠義

 三井景国(三井覚左衛門景国、三井奉膳、みついかげくに)は、はじめ真田昌幸に仕えた譜代の家臣。

 三井家は、真田幸隆の叔母が三井家に嫁したことから、真田家とは親戚となり、真田氏家紋の「六文銭」を用いている。

 三井景国は、1600年の第二次上田城の戦いで初陣を果たした。

 その後、真田昌幸が紀州九度山に配流となった際の16人の家臣の1人となり、真田昌幸の死後は真田幸村に引き続き仕えた。

 1614年、真田幸村が大坂城へ入った際にも同行し、1615年の大坂夏の陣では鉄砲隊を率いて奮戦。
 しかし、5月6日の道明寺の戦いで負傷し、手当てのため京都・西本願寺に匿われたため、翌5月7日に真田幸村が討死した際には、そばにいる事ができなかった。

 三井景国の刀傷は重かったこともあったようで、大坂落城後、5年間も本願寺に匿わられている。
 山科や本願寺の坊官・下間式部卿の屋敷に住んでいたようだ。
 なおこれは、三井景国の祖父・三井宗忠の妻が、下間頼重(下間式部卿頼重)の娘であった縁がある。
 また、長期間の京都滞在は、真田大八の消息がわからないよう、あえて動かなかったとも言われている。


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 1619年に、真田大八や阿梅姫を養育していた白石城片倉重長(片倉重綱)を訪ね、遺児養育の礼を述べると、そのまま片倉家の家臣に加わり、真田大八などを支えた。

 「真田大八は京都で死亡した」「大八君は8歳の時、京都にて印地打ち(陣取り合戦)の観覧中、石に当たって他界した」という虚報にも、関わったと推測できる。

 なお、京都にいた際に本願寺代12世准如上人のもと浄土真宗に帰依しており、法名は善久と称していた。
 男子を設けた際には、一寺を建立すると言う誓いを立てていたとおり、1634年に次男・善休を出家させて白石城下に善久坊を設立。
 この善久坊は現在の清林寺となっており、三井氏家紋「六文銭」が寺紋だ。
 清林寺本堂脇に、三井氏の3基の古墓がある。

 と言う事で、白石の清林寺に行って参りました。

清林寺

 白石・清林寺の創建は不明ですが、法源山清林時は浄土真宗本願寺派に属しています。

清林寺

 刈田郡誌によると、京都西本願寺・准如上人の弟子である「善久」が、1634年に寺を創立すると善久坊と号し、1659年になって本願寺良如上人が、清林寺と改称したとされています。
 この「善久」は真田幸村(真田信繁)の遺臣・三井景国(三井豊後)でして、1615年、大阪夏の陣の際の道明寺の戦いにて、真田勢の鳥銃衆を率いていましたが深傷を負い、西本願寺道場にて潜隠し、浄土真宗に帰依したと言います。

清林寺

 清林寺の寺紋は、真田家の「六文連銭」となっています。
 三井氏の墓とされる3基の墓は、本堂手前の鐘楼脇にありました。

三井氏の墓

 これがそうですとは案内がありませんので、わかりにくいです。

 さて、白石・清林寺への行き方・アクセスですが、下記の地図ポイント地点が無料駐車場の場所となります。

当信寺~阿梅の方の墓と真田大八の墓【白石市】
白石城と白石城の戦い~片倉家の居城と復元三階櫓の雄姿
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コメント

  • コメント ( 6 )

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  1. 玉堂

    三井景国が奥州白石に移住する以前より真田家ゆかりの小室弥七郎良幸なる人物が白石に住していたという。系譜には「祖は信州小諸の住人、真田家に数代間仕え、故ありて退き永禄八年深沢屋敷に移住し農に従った」とある。元和八年には百姓から肝入りを務め、時代は不明だが先祖代々の守護神、白山神社を屋敷内に建立した。家紋は笹丸木瓜に二算木。
    また、天文年中大乱の時、小諸より白石近くの山中に移住した野臥(のぶし)集団「小原十八騎」小室家の家紋は胡麻葉違丸ノ内ニ実壱ツ葉十枚宛左右。秘密の暗号が見え隠れしてならない。

  2. 玉堂さま、貴重な情報誠にありがとうございます。また、いろいろございましたら、お願いできますと幸いです。

  3. 玉堂

    文章の中に「住人」が重複しておりました。訂正をお願い致します。小原十八騎の中の小室氏は大坂夏の陣で片倉重長公のピンチを救っています。(NHK大河 独眼竜政宗の大坂夏の陣の回で映像化されています。ただし滑稽な脚色をされて…)私がまとめた小原十八騎ネタは関連のある記事にコメントしたいと思います。
    文章にするのが大変ですが…
    玉堂

  4. 文字の件、修正させて頂きました。もし、文章が600文字以上の長文になるようでしたら「寄稿」と言う形にて、1記事としてお受けする事も可能ですので、その時はお申し付け賜りますと幸いです。

  5. 藤上

    高田様
    過日は いろいろ情報有難うございました。
    また、教えてください。
    三井氏の墓石が3つありますが、それは 誰の墓なのでしょうか。
    又、それぞれの没年も その石には刻まれているのでしょうか。
    以上、お忙しい所 スミマセン、藤上。

  6. 藤上さま、ご連絡ありがとうございます。
    三井氏の墓石ですが、お寺さんの方でも、そのような言い伝えであると言う事らしく、100%三井氏の墓とは断定はできていないようです。
    そのため、当方の記事でも「三井氏の墓とされる」と言う事で、断定はしていない表現にさせて頂いております。
    あと、ご期待に沿えず申し訳ないのですが、史跡として訪問は致しておりますが、お墓マニアではないので、戒名など刻まれている内容までは、いつも見ておりません。
    また、真田関係や三井氏だけを専門的に調べていると言う事でもないため、申し訳ありません。没年などもあったのかは不明でございます。
    お役に立てず、お詫び申し上げます。