「参勤交代」は各藩の藩主を毎年4月に自領から江戸へ、または江戸から自領へと1年交代で定期的に行き来させると言う、江戸幕府が定めた制度です。江戸に行くことを「参勤」、国許に戻ることを「交代」と言います。
江戸幕府が成立すると、原則として1万石以上の大名は、妻(正室)と子(男子であれば跡継ぎ)と妻子を常時、江戸の藩邸に、事実上の人質として住まわせていました。
そして、藩主は自国で1年間過ごすして政務を行い、次の1年間は江戸の藩邸で過ごして、自国の政務は城代家老に任せていました。
鎌倉時代の武士は「いざ鎌倉」と言い、鎌倉への往来をしたことが原型と言えます。
戦国時代に豊臣秀吉が天下を取り大阪城に入ると、従属する大名の屋敷を大阪城下に置き、大名の妻や子を住まわせています。
これも事実上の人質と言う事ですが、江戸時代になって徳川将軍家に対する軍役奉仕を目的に、1635年、徳川家光により制度化されたのが、参勤交代(さんきんこうたい)となります。
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関ヶ原の戦いで、石田三成に勝利した徳川家康は、豊臣秀吉に習い、江戸城下に大名屋敷を設けて、事実上の人質として大名の妻と子供を住まわせました。(側室は国元と言うケースも多い)
そして、諸国の大名は将軍家に対して忠誠を誓う意味で、諸国の大名は江戸に出ては将軍に挨拶をする為、参勤していました。
各大名が自主的に行っていた江戸へ参勤が、徳川家の3代将軍・徳川家光の時代である、1635年には武家諸法度を改定して制度化されて、諸大名は1年おきに江戸と国元を往復することが義務となりました。
側室や世継ぎ以外の子には江戸に住む義務はないですが、江戸時代は平和な世の中となりましたので、江戸に住むことも多かったようです。
参勤交代の対象は徳川御三家を含む、原則として1万石以上の諸大名でした。
決められた期日までに国元から江戸に到着しなくてはならなかったので、この参勤交代は、江戸へと繋がる街道や大きな川の橋が作られたり、宿場町が整備されるなど交通を大きく発展させました。
しかし、この江戸への大名行列はその準備と遂行がすごく大変でした。
最も近い下妻藩でも道のりは数日、薩摩藩に至っては約2ヶ月も移動に日数が掛かりました。
期日までに江戸に到着しなくてはならないので、念密に移動計画を立てます。
現代のように川に便利な橋がたくさんある訳でもありませんので、水量が多いと数日間も川を渡れないことがしばしばあります。
そのため、諸藩は街道や橋も整備したのです。
岩国城下の錦帯橋もそんな整備のひとつなのです。
更に、宿場にて宿泊する際には、他の大きな大名や幕府の要人と重複しないか?、また、すれ違わないようにするために情報収集など、準備は半年以上も前から行なわれました。
自分より身上の他藩の行列などに遭遇すると、道を譲らなくてはならず、そこでまた足止になってしまうからです。
加賀の前田藩など、大きな藩は、参勤の人数も多いので、下手すると1日中、道をゆずることになります。
期日までに参勤できなければ不忠者として、最悪取り潰しの理由を与えてしまう可能性もあるからです。
大名行列が進んでくると、庶民は道を譲って、通り過ぎる間、ずっと土下座をしなければならず、馬に乗っていた場合でも必ず下馬しなくてはなりませんでした。
ただし、徳川御三家の行列以外では土下座は義務では無かったと言う説もあります。
飛脚や出産の取上げに向かっている産婆を除いて、行列の前を横切ったり、列を乱したりする行為は特に無礼な行為とされ、当時の国内法である公事方御定書(71条追加条)によって、その場で「切捨御免」も認められていました。
このため、行列の到来を知らせるために徳川御三家の場合は、土下座という意味の「下に、下に」と叫びました。
それ以外の諸藩は「片寄れー、片寄れー」、又は「よけろー、よけろー」という掛け声を用いています。
このように、行列が迫っている事を庶民に知らせて、無礼が発生しないよう気配りもしていたのです。
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諸藩は参勤交代の道中の宿泊費や移動費は距離にもよりますが、現在の価値だと数十億円~数百億円掛かったとされます。
300人~5000人もの行列での移動ですので、宿泊費・食費などもそれなりに必要なのです。
その為、1日行程が遅れるだけで、数千億円から数億円の余計な出費となる為、行程をいかに消化するかも重要だった事が伺え、とにかく早く江戸に到着するように計画した藩もありました。
結果的に、諸大名は国元の居城と江戸藩邸の両方の維持費など、大きな費用負担を強いられ、諸藩の財力低下に繋がります。
そして、徳川家が支配する平和な江戸時代が確立されたのです。
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