長崎県の島原半島ですが、雲仙・普賢岳以外にも色々と名所があります。
島原城(森岳城)もそのひとつですが、島原城下に残る「武家屋敷街」も大変素晴らしいところです。
普通「武家屋敷」と言う者は、古い城下町には、結構、あったり致します。
しかし、島原の場合には武家屋敷と言う文字に「街」がつきます。
すなわち、街(まち)の風情そのものが江戸時代の武家屋敷が並んでいた風景に非常に近いのです。
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それでは、そんな魅力ある島原の城下町をご紹介致します。
島原武家屋敷街
武家屋敷街(ぶけやしきがい)が島原城の近くにあります。
島原城を見学したあと、歩いて行くと約500m、徒歩7分くらいの距離です。
駐車場は下記の地図ポイント地点の道路沿いにあります。
地図は縮尺を変えてご覧願います。
一方通行もありますので、ご注意を。
島原の武家屋敷街で、実際に武家屋敷として公開されているのは、山本邸、篠塚邸、鳥田邸の3軒だけで、あとはちっょとした屋敷雰囲気のお土産物店(無料休憩所)が山本邸の脇にあります。
武家屋敷と言うのは、藩から藩士に与えられた住居です。
今で言えば公務員住宅のようなものですが、日本全国、各地に残っている武家屋敷を拝見しても、極端な話、まぁ、どこも同じような家と言った感じです。
そのため、島原でも、念のため見ておくか程度で、そんなに期待していなかったのですが、良い意味で裏切られました。
なんと下記の「武家屋敷水路」が現存しているのです。
しかも、結構、長い距離残っています。
約400mあるそうです。
島原のこの道を歩いたら、まさに江戸時代の武士や家族は、この道を歩いて生活していたのだと感じる事ができました。
映画の中の世界にいるような錯覚さえ覚えます。
この水路(溝川)は、道の真ん中にありますが、江戸時代の多くの宿場町などでも、このように道路の真ん中に、たいていは排水用の水路がありました。
しかし、自転車や自動車など便利な乗り物がある現代において、道の真ん中に水路があると危ないですし、不便です。
そのため、日本全国に武家屋敷が残っていたとしても、水路はほとんど失われているのが現状です。
そして、島原の武家屋敷はどこもかしこも「石垣」が塀の代わりになっています。
ただし、石垣の高さは、明治維新以降に積み重ねられたとの話もあるようですので、昔のままであるかは確証が得られません。
島原半島をクルマで走っていて感じたのは、普通の民家でも石垣を多く用いていると言う事です。
それだけ、維新以降、石垣を用いる事が一種の流行だったのかも?知れません。
諫早石と呼ばれる石らしいのですが、いずれにせよ「石垣の城下町」となっています。
さて、下記は篠塚邸です。
島原の武家屋敷
篠塚邸などこの辺りは50石前後の下級武士の武家屋敷街となります。
武家屋敷と言うのは、そもそも「官舎」です。
藩が建てた住居を、家臣である藩士に貸し与えました。
そして藩士は家族と共に生活した訳です。
下記は山本邸ですが、角地でもあり、門が立派ですので、下級武士の中でもちょっと上級だったのかも?知れません。
台所も有りました。
敷地内には井戸もあります。
そもそもこの辺りは「鉄砲町」と言う街の名です。
鉄砲組(徒士)の住居であり、当時は隣家との間に塀も無かったようで、まるで鉄砲の筒の中を覗くごとく、武家屋敷街が見通せたので、このように呼ばれたと言われています。
下記はちょっと離れた場所にある島田邸です。
なんでも、70石以下の徒士(かち)屋敷が690戸あったそうです。
これら3つある武家屋敷(山本邸、篠塚邸、鳥田邸)の公開時間は朝9時~17時で、なんと「無料」です。
所有者様に感謝しなくてはなりませんね。
ただし、年末年始はお休みです。
さて、駐車場近くのほうに戻って無料休憩所の敷地内にあるのが下記の水神祠(すいじんし)です。
1624年に建てられたものと言いますので、松倉重政の時代の建造物です。
ただし、島原城が廃城となった際に、城の唐門を移築・転用した可能性も捨てきれないそうです。
以上、なかなか楽しめる島原の城下町・武家屋敷でしたが、是非、ずっとこのまま保存されることを期待したいです。
島原城へのご訪問とセットでどうぞ。
・松倉重政と松倉勝家~島原城を築城するも日本最大の一揆を引き起こした原因は?
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