『平家物語』廻文には木曽義仲の武力を称える一説に、”上古の田村、利仁”と記されています。田村は平安初期の英雄・坂上田村麻呂を意味しており、彼の次に記される利仁は藤原利仁(ふじわらのとしひと)と言う武将です。田村麻呂と並んで称賛される藤原利仁とはどのような人物だったのか、本稿ではそれを紹介していきます。
利仁は中世の日本で名高い貴族・武人でしたが、その人生は生没年を含めて未だに謎が多く、その人生を紹介するにあたっても断片的な記録や伝承となることをお許し頂ければ幸いです。藤原北家魚名流の貴族である藤原時長を父、越前(福井県)の人である秦豊国の娘を母として生まれた利仁は、醍醐天皇(在位897年~930年)が治めた王朝文化の理想的な時代と言われた延喜年間に活躍しました。
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利仁は延喜11年(911年)には上野介、翌年には上総介に任じられたのを始めとして関東各地の国司を歴任して政治・軍事方面での実績を積み重ねるだけでなく、血縁での繋がりを強める事もしっかりと行っています。正室には皇族・輔世王の姫、側室には伴統忠の娘、敦賀(現・敦賀市)の豪族である藤原有仁の娘婿ともなり、母の生国である越前との縁は2世代に渡るものでした。
利仁と越前との関係で名高いのが『今昔物語』『宇治拾遺物語』におけるエピソードです。若き日の利仁は、芋粥(山芋を甘く煮た当時の高級料理)を飽きるほど食べてみたいものだと藤原基経の館に勤務する五位の侍(※1)が独り言を言うのを聞きます。そして、五位を越前に招待してごちそうすると約束した利仁は五位を連れ出し、道中で一行を待っていた人々の歓迎を受け、神通力を持つ狐を捕まえて使者にするなどして越前まで辿り着きます。
到着した越前は豊かな土地で、豪華な食事や夜具、そして若い女の召使いまで付けられて歓待を受ける五位を驚かせたのは、何と言っても利仁とその婿入り先である有仁一家の権勢でした。有仁の家臣による号令に応じ、藤原家に仕える下人らは大きな山芋とそれを煮る味煎(※2)を大量に持ち寄り、五位を接待すべく芋粥を作り始めたのです。
これに驚愕した五位はあれほどあこがれていた料理を前にしても食欲が失せ、十分に頂いて満腹したと降参したのでした。それを聞いた利仁らはさも愉快そうに笑い、あまたの使用人らも、「お客人のおかげで芋粥にありつける(※3)」 と喜びます。『今昔物語集』では、その後も五位は利仁や有仁らの盛大な歓待を受け、出立時には莫大な土産物を与えられて帰京したのでした。
この説話は最後に、五位のようにまじめに働く事の大切さを説き、後世の作家である芥川龍之介・もろさわようこ両氏がそれぞれ執筆した小説でも五位がほぼ主人公的に描かれますが、原作では平安貴族でありがらも地方豪族との強いつながりで権勢を誇った利仁の偉大さと剛毅さが強調される形となっています。
越前の豪族との通婚で力を伸ばした利仁による勲功は延喜15年(915年)に行われた群盗退治で、『鞍馬蓋寺縁起』によると蔵宗・蔵安と言う頭領に率いられて貢物を掠奪した下野国(栃木県)の賊軍を平定し、その武名は知られました。なお、利仁は同年に鎮守府将軍に任ぜられ、従四位下にまで登り詰めたと言われています。
こうした逸話や武勇伝に彩られた利仁ですが、新羅討伐に向かう途中に新羅側が招いた聖人の祈祷で頓死したとする伝説が残るなど、生年と同様にいつ死去したかはさだかではありません。しかし、その系譜は次男の叙用が伊勢神宮の祭祀をつかさどる皇女に仕える斎宮頭となり、役職と姓名から斎藤を名乗った事で各地に広がります。中でも、室町時代から戦国期にかけて活躍した美濃の斎藤氏が著名です。
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また、御伽草子では俊仁将軍と呼ばれ、大蛇や鬼などの妖怪退治を始め、蝦夷の悪路王を討ち滅ぼした事や、坂上田村麻呂をモデルとした武将の父とする説話(※4)、唐土への遠征に臨むも神仏の加護を失って逝去してしまう最期などが描かれて広く親しまれ、藤原利仁は史実のみならず物語の世界でも伝説の人として、今も語り継がれています。
(※1)役人、官吏の事。作家によっては有力貴族の配下である武士や使用人として解釈される事も。
(※2)みぜんと読み、アマヅラと言う植物から採取した甘味料
(※3)平安期の宴会では大量の飲食物が用意され、残ったものは貧困層に施されたり、仕える者たちの役得になることもあった。
(※4)田村麻呂は利仁よりも前の時代である8~9世紀の人物
参考文献・サイト
芥川龍之介 『芋粥』
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