安土城~それは織田信長が天下に示した最新のアトラクションだった


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安土城(あづちじょう)は、琵琶湖東岸の標高199m安土山に織田信長が命じて築城した山城(比高112m)です。

元々、安土山は目賀田山と呼ばれており、観音寺城の支城として目賀田貞政(目賀田摂津守貞政)の居城・目加田城(目賀田城)となっていました。
しかし、織田信長は目賀田貞政に代わりの領地を与え、安土山に「安土城」を築城したのです。

1576年1月、丹羽長秀を総普請奉行にすると2月23日には仮の御殿が完成し織田信長が安土へ移りました。

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下記の写真は安土城の麓にある大手口の石垣です。
大手と言うのは城の正式な玄関口と言う意味になります。
これから、約60枚の写真と共に安土城をご紹介致します。

安土城跡の大手門口からの階段は、一直線に伸びた石段となっております。

戦国時代の城で、これほど広い階段は珍しいです。
江戸時代に入ってから築城・改修された城では、見受けられる事はありますが、戦国時代の1576年当時としては、攻められる事を恐れないと言う、かなり大胆な縄張り(設計)だったのではないでしょうか?

長年埋もれていたのですが、登城道の石段が復元されており、その途中には石垣に混じって石仏が設置されています。

石仏はあちこちに使われております。
これは、安土城の築城を急ぐため、使える石は付近から寄せ集めたと言う事を示しています。

安土山の中腹には家臣団の屋敷跡がいくつかあります。
そうそう、各写真はクリックすると拡大して、スライドさせる事も可能です。
各写真に人間は移りこんでいないと思いますので、お楽しみ頂ければと存じます。

羽柴秀吉(豊臣秀吉)の屋敷跡は結構広くて、ずいぶんと目立ちます。

上記は、前田利家の屋敷跡です。
他の重臣らの屋敷跡も安土城の山腹などを取り巻く様にあったようですが、現在、安土城を見学できるのは約30%程度の範囲のため、すべては見れません。

中腹の石垣もかなり立派なものです。

上記のような階段も、なだらかなカープを描いており、現在、道路や歩道などをわざわざカーブさせるのと同じような芸術性も感じます。

途中から大手道を見下ろすと上記のような感じです。

だいぶ上の方に上がって参りました。

上記は武井夕庵の屋敷跡です。
武井夕庵と言う織田信長の家臣は、あまり聞きなれないかと存じますが、織田信長の側近として右筆を務めたいわば官僚です。

その武井夕庵の屋敷跡から、登って来た大手道を見下ろすと、上記のような感じでした。

ここまで登ってくると、裏門へ通じる道と、天守へ更に繋がる道と分岐する、一旦「尾根」のような平坦地に出ます。

どの角度からも石碑の文字を、手前の木の枝が邪魔して、うまく写せなかったのですが、この平坦地は織田信忠の屋敷跡とされています。

その織田信忠の屋敷跡の脇から、本丸へ通じる道が続きます。

織田信長は安土城の城下町も整備して、楽市楽座を敷き、安土城も本丸御殿、高雲寺御殿、摠見寺など、次々と建物が整備されて行きました。
ただし、甲賀辺りの寺院にあった建物を、半ば強制的に安土城へ移築した事も多かったようです。

二の丸・本丸へ通じる階段途中の曲輪にも、家臣らの屋敷があったようです。

上記は織田信澄と、森蘭丸の屋敷跡とされています。

二の丸の手前には黒金門がありましたが、上記がその石垣となります。

虎口になっていますが、当時としてはかなり立派な虎口だったのだと思います。
石垣の組み方も、かなり垂直に近い角度になっていたので、ビックリしました。

さすがに、この辺りから防御面も考慮した構造になっています。

上記写真の正面の石垣上段は二の丸です。

その二の丸に進む手前にある郭は、長谷川秀一の屋敷跡でして、そこに織田信雄四代供養塔があります。
供養塔は右から織田信雄、織田信武(4代)、織田長頼(3代)、一番左が織田高長(2代)でして、すなわち宇陀松山藩関連の供養碑となります。

二の丸へ入る手前は複雑な構造の通路になっています。

上記は「仏足石」です。

それにしても、石垣の量もすごく、お金が掛かっている城です。
石垣はどこから運んできたのでしょう?

調べましたら三重や丹波篠山あたりから運んできたそうです。
もっとも、八幡山城が新築された際に、石垣の多くは再利用のため、運ばれて行きましたので、どれだけ当時の石垣が残っているのかも、良くわかりませんが・・。

上記は安土城の「二の丸」です。

二の丸跡には、豊臣秀吉が建立した織田信長廟が残されています。

二の丸からは戻る形で、本丸方向へ進みます。

1576年4月1日から安土城の天守台の石垣工事が開始され、1579年5月になんともきらびやかな天守が完成すると織田信長は天守に移っています。

1582年5月15日には、武田勝頼討伐の功績を称えて、徳川家康を安土城に招待し、明智光秀が饗応役を務めています。

上記が安土城・本丸です。
本丸には京都から天皇を移し、織田信長はいずれ大阪に新城を作ろうと考えていたとも言われています。
天守台は本丸より更に高いと所にあるのですが、写真の奥にある「三の丸」も、本丸より高い位置にあるようです。

本丸脇も土塁ではなく石垣です。
佐和山城や観音寺城を見て来たあとなので、特に豪勢に感じます。

天守台へと登って行きます。
徳川家康を安土城に招待した織田信長でしたが、1582年5月29日、本能寺の変にて横死します。

上記写真は、天守への入口です。

上記は天守台から撮影した出入口です。
このような玄関の構造は大好きです。

と言う事で、天守台にやって参りました。
日本で初めて石垣に天守と言う構造になったのが安土城です。
織田信長は山麓の屋敷ではなく、直接、天守にて生活していたと言います。
単に防衛の為の城であれば、莫大な費用を掛けて豪華絢爛な天守にする必要はありませんので、織田信長は人々に自分の権威を示し、世の中は信長の天下である事を印象付けたかったのでしょう。

天守閣の礎石は、その中央だけ礎石がなく、安土城の謎のひとつとなっています。
安土城の天守外面は各層が朱色・青色・あるいは白色で、最上層は金色にと豪華絢欄な建築物あったとルイス・フロイスなどが記録を残しています。
高さ46mは、当時では世界一を誇った木造高層建築でした。
ちなみに、伊勢の安土桃山文化村に、幻の名城として安土城天守が創造復元されています。

上記と下記の写真は天守台から下の二の丸を見下ろしたものです。

本能寺の変の際に、安土城代として留守番していたのは蒲生賢秀ですが、織田信長が命を落としたことを知ると、本拠地である日野城へ蒲生氏郷と共に、織田信長の妻子なども伴って逃れました。

安土城ができた当時は、安土山の麓まで琵琶湖が迫っていましたが、昭和に入って干拓され、現在は湖岸からだいぶ離れている形となっています。

山崎の戦いのあと、安土城は明智秀満勢によって、主に天守と本丸付近を焼かれています。完成から僅か3年の事でした。

ただし、本当のところは、明智秀満が火をつけた訳では無く、明智勢が退去した直後に織田信雄が安土城に入った際に、まだ城内に明智勢が隠れていると思い込み、安土城に火を放ったのではないか?と考えられています。
ルイス・フロイスも理由はわからないけど、織田信雄が火をつけたのでは?と記しています。
現在の天守台の高さは10mほどですが、織田信長の時には22mあったと言う史料があり、実際に天守台の北側には石垣が残っていませんので、当時はもっと大きかったものと推測致します。

天守台から降りて、再び本丸に出ました。上記写真奥は三の丸石垣ですが、三の丸は公開されていません。

上記は、織田信忠の屋敷まで戻って、別の道に進み、裏門跡への階段を内側から撮影したものです。
焼失した安土城ですが、その後も城としては機能しており、清洲会議のあと羽柴秀吉(豊臣秀吉)によって三法師(織田秀信)と、後見の織田信雄が安土城の二の丸に入るなどしています。
ただし、まもなく豊臣秀次が八幡山城の築城を開始すると安土城の建物や城下町を移築し、6歳になった三法師(織田秀信)も1584年に近江・坂本城に移されました。
そして、1585年頃、織田信長が天下に威信を示した安土城は、その運命を終えました。
豊臣秀吉は1583年から大坂城の築城開始しており、八幡山城の築城も豊臣秀吉が主導していますので、大坂城の主こそが天下人であると主張するには、安土城は目障りだったのでしょう。

上記は摠見寺の本堂があった郭ですが、当然、防衛拠点としての機能もあったのでしょう。

摠見寺(そうけんじ)は、安土城が築城される際に建立された臨済宗妙心寺派の寺院です。
摠見寺の建設に当たっては現超光寺や甲賀・長寿寺など近隣にあった多くの寺院の建物を移築したとされており、22棟の建物があったそうです。

上記は三重塔ですが、これは安土城ができた当時からあった建物となります。
建造は1454年で、1555年に修理した記録があり、織田信長が甲賀・長寿寺から移築しました。

1604年には豊臣秀頼も三重塔を修理しており、当時の摠見寺住職には、岩倉城主・織田信安の三男である剛可正仲や、玉甫(織田信安)がいます。

この三重塔から下山するコースが帰り道となっていますが、振り返ると上記のような感じです。

上記は帰り道の途中にある「仁王門」(楼門)です。
甲賀の山中俊好が1571年に寄進したものとなっています。

帰り道はずっと階段を下ったあと、やがて山腹を平行するような散策路となり、最終的には豊臣秀吉の屋敷跡に戻ります。

織田信長は、安土城下にて相撲大会を何回も開催したり、天守を提灯にてライトアップするなど、人々を楽しませる趣向を盛大に行いました。
今で言えば、税金をつぎ込んで、人々を楽しませると言うイベントを行うのと同様でして、その舞台として安土城は庶民の「アトラクション」だったと、実際に安土城を訪問して感じました。
安土城は防御にも考慮した天下人・織田信長の居城と言う事だけでなく、まさに新しき世を織田信長が作って見せると言う象徴でもあったのです。

1582年正月には、天守脇の本丸御殿を諸大名の家臣だけでなく庶民にも「特別一般公開」し、織田信長が自ら百文の見物料を受け取ったと言います。
百文と言うと、現在の価値ではざっと5000円といったところです。
最初は、5000円も取って、大金持ちのはずの織田信長はずいぶん「ケチ」だな?、なんて思ったのですが、現地を訪れてみてそうでは無い事に気が付きました。
安土城の遺構を実際に見ることで分かりましたが、設備的には当時最高の技術が注がれており、最新鋭の城なんですよね。
建物も見たこともない、今まで無かったような、新しい趣向を凝らした立派な技巧が施されていたのでしょう。
皆様も良くご存じの推定されている安土城天守の様子にしても、非常に珍しいですからね。
今でこそ、我々は殿様や一部の重臣しか入れなかった国宝・天守閣に簡単に登る事ができますが、戦国時代や江戸時代に庶民がそんな城の内部まで立ち入るのは不可能ですので、入れると言う事は「憧れ」でもあったと推測します。
そういう意味では、例え5000円もの入場料を取ったとしても、城の内部がどんな風になっているのか全く知らない庶民にとっては、見学できると言うのは「夢」のような話です。
そのため、無料で見学させても良かったとは思いますが、無料ではなんだその程度のアトラクションなのか?と、逆に期待度も感激度も、余り高まらなかったのでは?と推測します。
電気があった訳でないので、動力で動く乗り物などがある現代のアトラクションと言う事ではありません。
しかし、わざわざ5000円も出して初めて安土城を見学した庶民は、お金を払っただけの価値があった、行って良かったと思い込みやすい訳でして「安土城は素晴らしかった」と言う評判が、勝手に近隣にも広まった事でしょう。
これは、織田信長はもはや天下人であり、安土城下に住む領民の期待を裏切る事はない、また新たな夢を提供して行くぞと言う意思表明でもあったのかな?と思いました。
このように、安土城を単なる城としてではなく、見てみたい、登りたいと、城下に住む領民に「夢」を与える象徴でもあり、次は何をするのだろう?と期待させると言う、まさに織田信長は「イベント・プロデューサー」でもあったのだと感じました。
安土城が築城されてから400年以上たったいまでも、織田信長のマジックに見事にはまったような、ワタクシがいるのも事実でございます。

安土城は現在有料見学となっており入山料(2016年1月現在、大人700円、子供200円)が必要であり、見学可能時間はAM9:00~PM5:00ですが季節により変動する場合があります。
摠見寺・本堂の特別拝観は日曜日(雨天中止)のみでプラス500円となります。

安土城の見学所要時間はざっと一周して50分。
ゆっくり見て周ると60分~90分かかりますでしょうか?
トイレは麓にしかありません。
また、夏場は熱中症対策として水分補給できるようにしたいところです。

付近には滋賀県立安土城考古博物館、安土城天主・信長の館(文芸の郷)、安土駅前に安土町城郭資料館がありますので、時間が許せば合わせて訪れたいところです。
私は日本100名城スタンプはやっていないのですが、スタンプラリーのスタンプ設置場所も3箇所の資料館だそうです。

上記は安土城の築城を描いた映画火天の城

安土城へは、JR琵琶湖線・安土駅から徒歩20分ですが、レンタル自転車を借りると便利かと存じます。
車でのアクセスの場合には駐車場(150台)が大手の目の前にありますが、駐車協力金は500円です。
なお、今回、私が駐車させて頂いた、入山者向けの無料駐車場も実は用意されていますので、下記の地図にて、その無料駐車場の入口を示しておきます。
ただし、満車の際には500円の駐車場を利用するしかないと存じます。
地図は縮尺を変えてご覧願います。

訪れてる度に、好きになれそうな安土城。
織田信長の「夢」を皆様も感じて頂けると幸いに存じます。

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