信濃・松岡城と松岡貞利~井伊家を救った松岡家は井伊家にまた救われた?


スポンサーリンク
スポンサーリンク

信濃・松岡城(まつおかじょう)は、標高560mの平山城で比高は100mとなる。
別名は松岡本城。

南東には天竜川が流れ、北東に間ヶ沢、南西に銚子洞と言う2つの深い谷に挟まれる形の半島状台地の先端が松岡城となっている。

 スポンサーリンク


下記のポイント地点は駐車場の場所で、その南東に伸びた台地の先端が本丸となる。

また、更に南西の台地には出城となる松岡南城を築くと言う防衛体制であり、河岸段丘の総構えの城とも言えるだろう。

昔の三州街道(伊那街道)は、松岡城より北を走る現在の県道15号であり、松岡城は重要な拠点でもあった。

この高森を治めたのは松岡氏で、1056年~1062年の「前九年の役」で敗れた安倍貞任の次男・安倍仙千代が乳母に連れられて逃れ、市田郷牛牧に土着する。
そして郷民に押されて地頭となり「松岡平六郎貞則」と称した模様である。

鎌倉時代には松岡古城が拠点であったが、南北朝時代に、松岡氏は北朝方の信濃守護職・小笠原氏の配下となって、南朝方の知久氏・香坂氏などと対立。
飯田の付近では天竜川の西岸が北朝方、東岸が南朝方だったようで、この頃により強固な松岡城を築城して本拠としたようである。

南北朝時代の当主・松岡伊予守貞景は下市田に安養寺を創建し、子の松岡貞政は至徳3年(1386年)に、亡き父・松岡貞景の33回忌を執り行い、五部の大経二百巻を写経して安養寺に寄進したと言われている。

1400年の大塔合戦、1440年の結城合戦では、信濃守護職・小笠原氏に属して参陣したが、文明・明応年間(1469年~1501年)に小笠原家が分裂して衰退すると、座光寺・宮崎・竜口氏など下伊那衆を支配下にして、松岡氏は下伊那の有力国人に躍り出た。

永正10年(1512年)、明甫正哲が松源寺を開基し、松岡頼貞の弟・文叔瑞郁禅師が井伊谷の自浄院(龍潭寺)住職から市田郷に戻って松源寺を開山した。

そして、1545年頃に、井伊直満の子・亀之丞が松岡氏の松源寺に今村藤七郎と逃れたきたと言う事になる。
同じころ、諏訪からさらに勢力を伸ばしたい甲斐の武田晴信(武田信玄)は、1545年4月に自ら2万の大軍を率いて伊那にも侵攻する。
高遠頼継の高遠城、藤沢頼親の福与城が陥落する様子を見た松岡氏をはじめ伊那衆は、抵抗することなく武田家に臣従した。

しかし、1554年 神之峰城主・知久頼元、座光寺城主・座光寺頼近など一部の伊那衆が神之峰城に籠城して武田に反旗を翻す。
松岡氏も同調して武田に反するが、神之峰城が猛攻を受けて陥落すると武田信玄に降伏し、所領を安堵された。
木曽福島城主・木曽義昌もこの年、武田家に降伏している。

その後、松岡家は、山県昌景(飯富三郎兵衛)の与力となり、松岡氏は軍役50騎(兵力に換算すると200名ほど)を負担した。(80騎とも)

天正10年(1582年)、織田信忠が伊那に大軍で入ると市田郷で森長可と武田勢が戦い、瑠璃寺・松源寺・安養寺も焼け、飯田城・大島城の武田勢は降伏したため、伊那の豪族は織田家に投降。
武田勝頼が自刃して武田家が滅亡すると、織田信長の家臣・毛利秀頼が坂西氏の居城であった下伊那郡の飯田城主となり伊那を統治する。

この時、松岡頼貞(松岡兵部大輔頼貞)は本領を安堵されたが、1582年6月、織田信長が本能寺の変で横死すると、武田氏の旧臣などによる反乱の恐れて、毛利秀頼は尾張に帰還し、飯田城は下条頼安に掌握された。

その後、伊那は徳川家康の勢力下となり、松岡氏も徳川家に従属し、飯田城に入った菅沼定利の配下となる。

第1次上田城の戦いでは、松岡貞利も徳川勢として上田城を攻めている。
松岡家の家臣としては片桐二郎右衛門と言う名も見受けられる。

松岡城の先端から望む天竜川の向こうの南アルプスは雄大そのもので、毎日この景色を見ても飽きなかっただろう。

1585年、徳川家康を後ろ盾にして信濃・深志城に入った小笠原貞慶であったが、石川数正が小笠原家の人質を連れて豊臣秀吉に寝返ったため、やむなく小笠原貞慶は、高遠城の保科正俊を攻撃開始して豊臣家に恭順した。
この時、松岡貞利(松岡右衛門佐貞利)は大きな過ちを犯し、小笠原貞慶に協力しようと、高遠城へ向かったと言う。
しかし、小笠原勢は劣勢となり松本城に戻ると聞くと松岡貞利は兵を戻している。

この事を、隣の座光寺主・座光寺為時(座光寺次郎右衛門為時)が、伊那郡代(知久平城主)・菅沼定利に密告したため、松岡貞利は徳川勢に捕縛された。

小笠原家の衰退、武田家滅亡、そして織田家から徳川家の統治となっても、うまく乗り切ってきた松岡氏であったが、1588年、松岡貞利は改易となり、600年続いた所領は没収。
松岡貞利は徳川家の有力重臣となっていた井伊直政に預けられていたようで駿府城の井伊屋敷に入った。
井伊直政も松岡家のために助命嘆願したと考えられ、松岡貞利の命は助かったようで、磔は免れている。

そして松岡城は廃城になったと考えられるが、松岡貞利は佐和山城に入った井伊直政に従って、500石で彦根藩の藩士に列している。

ちなみに、密告した座光寺為時(ざこうじ-ためとは)は、その功により上野国碓氷郡大竹に950石を与えられている。
関ヶ原の戦いの際に第2次・上田氏の戦いなて奮戦した戦功で、市田郷山吹の地戻って1400石となり、座光寺氏は明治維新まで続いた。

松岡城への行き方であるが、現在の松源寺の先に見学者用の駐車場が確保さてれいる。
下記の当方オリジナルのGoogleマップにして松源寺を示しているのでご参考頂きたい。

洞頭城

松岡城からフルーツラインで飯田方面に向かったところに洞頭城(どうとうじょう)がある。

洞頭ノ城とも呼ばれ、松岡城の出城(支城)とも考えられるが、昔の土豪の館跡と言う可能性もあるか?

現在は畑になっており、築城年や築城者などは不明であるが、県道15号線の横に城址碑がたっている。

井伊直親とは~井伊家を継ぐも悲運となる生涯と亀之丞が逃れた東光院や松源寺
今村正実の忠義と貢献~今村藤七郎正実とは?【おんな城主直虎】
『井伊家伝記』「第10段 井伊彦次郎實子龜之丞信州落之事并今村藤七郎忠節之事」
武田信玄とは~智力溢れる戦略と人物像・性格は?
長岳寺【駒場】武田信玄火葬の地(武田信玄公灰塚供養塔)
武田信玄の墓はどこにあるのかに迫る
菅沼定忠と田峯城の復元された本丸御殿と武田勝頼が逃れた武節城~菅沼定利も
小笠原貞慶と小笠原秀政~小笠原家を復興
井伊直政~井伊の赤鬼の異名を誇る徳川四天王
井伊谷や直虎ゆかりの観光スポット・Googleオリジナル地図
井伊直虎ゆかりの地を観光するお勧めスポット【おんな城主・直虎】

スポンサーリンク

関連記事

コメント

  • トラックバックは利用できません。

  • コメント (0)

  1. この記事へのコメントはありません。

 スポンサーリンク

気になる戦国女性

  1.  淀殿(よどどの)は1569年に近江・小谷城にて誕生した。  父は浅井長政で、母は織田信長の妹・お…
  2. 千姫(せんひめ)は、徳川秀忠とお江の長女として、1597年4月11日に伏見城内の徳川屋敷で産まれた。…
  3. 豪姫(ごうひめ)は、織田信長の家臣・前田利家の4娘として尾張・荒子城(愛知県名古屋市)にて1574年…

人気の戦国武将

  1. 南渓瑞聞(なんけいたんぶん)とは、井伊谷城主・井伊直平の次男である。 生年は不明。 戦国初期…
  2. 甲斐宗運(かい-そううん)は阿蘇神社大宮司・阿蘇惟豊の筆頭家老である甲斐親宣の子として生まれた。 …
  3. 【治国平天下 ~柳生新陰流 天下統御の剣・柳生石舟斎と柳生宗矩】 柳生石舟斎・柳生宗矩と柳生一…

オリジナル戦国グッズ

限定「頒布」開始しました。無くなり次第終了です。
戦国オリジナルバック

 スポンサーリンク
当サイトでは
Android app on Google Play
↑ アプリ版もあります
 オリジナル書籍
柳生一族
書籍・電子書籍にて販売開始

 オリジナル電子書籍

戦国武将研究会著作

メールでお知らせ

新規記事追加をメールで受信可能。

ページ上部へ戻る