徳川家康【超詳細版】~徳川家康にすごく詳しくなれる詳細版


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 小生は今まで、あえて天下を取ったような大立身した武将には焦点を向けて参りませんでしたが、今回、徳川家康の「生き様」を深く知りたくなり、徳川家康について詳しく調べてみました。
 当初、数日あれば大丈夫かな?と考えていたのですが、さすがに、調べるだけでもかなりの日数を要しました。
 結果的に2週間掛かりまして、途中でもう諦めようと思ったくらいです。
 常に大きな勢力に飲み込まれながらも、打開すべく巧みに行動した徳川家康は、単に戦国時代を制したのではなく、想像を絶するくらい、大変羨ましい中身が濃い人生を送った人物であることが分かりました。
 凡人な小生とは大違いです。
 また、何度も命の危機に合いながらも「運が強い」と申しましょうか、天性なのでしょう。かなりの強運の持ち主であり、また優れた戦略面がそうであるように有能な家臣にも多数恵まれた、人望もある武将であることも分かりました。運も無い小生とは、比べようもありません。
 豊臣秀吉は出自が良く無い為、本当の味方になってくれる家臣を揃えるのに苦労していますが、徳川家康は信頼できる家臣が最初からいて、逆境を独自の力で打破して行く能力が長けている武士団と言えます。
 そんな英知の武将「徳川家康」について、誠に長い文章で40000文字(その後まとめて少しは少なくなりました)に渡る長編で恐縮ですが、もしよろしければ、ブックマークやTwitterのお気に入り登録などして、何回かに分けてでも、ご高覧賜りますと幸いです。

 1542年12月26日 徳川家康は三河・岡崎城で生まれた。幼名は竹千代。
 父は、岡崎城主・松平広忠。母は正室・於大の方。母の実家は刈谷城主・水野忠政。
 この頃の松平家は今川義元の傘下に下っていた。

 1554年、於大の方の父・水野忠政の死後、水野家を継いだ水野信元が、松平家の主君である今川義元から離反して、織田信秀に降った為、松平広忠は於大の方を離縁した。
 このように、徳川家康は幼いころに母と別れ、母を知らずに育つ事となる。

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今川家の人質時代

 1547年9月、織田信秀が三河へ徐々に侵攻を開始していた為、松平広忠は、今川義元により一層の加勢を乞うた見返りとして、竹千代(徳川家康)を人質として駿府館に差し出し事となった。
 その送り届ける任を、今川義元から命じられた田原城主・戸田康光が当たった。
 この戸田康光も松平氏に屈服していたが、その後、松平氏が今川氏の傘下に加わると、戸田康光も今川義元の傘下となっていた。
 戸田康光は岡崎城で竹千代を預かると、渥美半島の老津の浜から舟で駿府に向かうと見せかけて、舟は西に行き先を変え、尾張の織田信秀(織田信長の父)のもとに向かった。
 この戸田康光も、今川義元から離反して、織田信秀に加担したのだ。1000貫文(500貫文、100貫文とも)で売られたと、後年、徳川家康は語っている。
 これに怒った今川義元は、田原城を兵を出し、戸田康光は嫡男・戸田尭光共々討死し、戸田氏は滅亡した。太原雪斎の活躍もあったとされる。田原城には伊東祐時(いとうすけとき)が入った。

 一方、竹千代を人質に取った織田信秀は、当然のように松平広忠に降伏するよう促した。
 しかし、松平広忠は「子を殺されれば誰でもそうするように、私も仕返しをするだろう」と断り、これに感服した織田信秀は、竹千代を名古屋にあるの織田家・菩提寺「万松寺」に預けた。こうして、竹千代(徳川家康)(6歳)は、織田信長13歳とも面識を得たのだ。
 織田信長は1546年に濃姫を正室に迎えている。

 1549年2月20日、松平広忠は今川義元の援軍・太原雪斎との連合軍で、織田信秀勢に勝利し安祥城を攻略した際、織田信秀の嫡男・織田信広を生け捕りした。
 2月26日に、織田家に捕まっていた竹千代と、織田信広を人質交換と言う形で和議し、救出された竹千代であったが、兼ねてからの約束通り、竹千代は供7人に連れられて駿府館に送られた。
 その直後、1549年3月6日、竹千代の父・松平広忠が死去。(享年24歳)
 死因については、病死説もあるが、下記の通り様々な説がある。
 岩松八弥と言う家臣が寝所を襲い殺害した。岩松八弥は岡崎城に忍び込み傷を負ったが殺害までには至っていない。織田信秀が岩松八弥を刺客として送った。(以前から密偵として松平家の家臣にさせていた?)
 いずれにせよ、直前で竹千代が今川義元に保護された形となり、竹千代の命も、松平家も存続する事ができた。
 しかし、岡崎城には今川義元の家臣が入り、実質、今川家の属城となった。
 駿府の人質屋敷で生活した部屋の隣は、同じく北条家から人質で来ていた北条氏規がいたようだ。この2人は、太原雪斎からも学問を学んだとされる。
 しかし、病弱だった竹千代には、於大の方の母・源応尼(のちの華陽院)、すなわち母方の祖母が側で世話をし、智源院の智短和尚からも学ばせた。

 1551年、織田信秀が亡くなり織田信長が織田家の家督を継いだが内紛もあり、1559年にようやく尾張の支配権を確立している。

 1555年、14歳になった竹千代は元服を許されて、名を松平次郎三郎元信(松平元信)と改めた。「元」の字は今川義元から贈られたものだ。しかし、岡崎衆を引き続き今川家に味方させるため、人質状態はこの後も続いた。
 1556年、今川義元の計らいもあり、松平元信は岡崎への墓参りと法要を許可され、初めて亡き父の墓参を果たしている。
 この時、岡崎衆の鳥居忠吉より岡崎城を案内され、松平元信の帰国を夢見て、家臣は質素倹約をし、軍資金・兵糧米など蓄えていることも説明を受け、松平元信は将来必ず家臣に報いようと誓ったと言う。
 この年、美濃の斎藤道三斎藤義龍との戦いに敗れて命を落とした。
 1557年1月15日、更に改名して、松平蔵人佐元康 (松平元康)すると、今川義元の仲介で、今川家一門・関口親水(持船城主)の娘である瀬名姫(築山殿)15歳と結婚した。
 この年、今川義元の西三河攻めにて初陣を飾った。この際、松平家の菩提寺・大樹寺の登誉上人が、僧兵を率いて加勢した「厭離穢土・欣求浄土」の旗が、その後、徳川家康の旗印となったのだ。
 1559年、駿府にて長男・松平信康が誕生。幼名は竹千代を襲名した。

桶狭間の戦いと今川家からの独立

 1560年5月12日、今川義元の尾張攻めに松平元康も参加。松平信康は先行し、5月18日の夜に大高城に兵糧を届けた。
 5月19日、松平元康・石川家成・酒井忠次らは、佐久間盛重が守る丸根砦、朝比奈泰朝・本多忠勝らは、織田秀敏らが守る鷲津砦に攻撃開始。
 この報を聞いた織田信長は「敦盛」を舞って清洲城から討って出たのだ。
 丸根砦の織田勢500は、城外で松平元康らと戦闘したが、佐久間盛重が討死。鷲津砦では篭城戦したが飯尾定宗、織田秀敏が討死し、飯尾尚清は敗走した。
 これにより、大高城付近の織田勢は一掃されたが、織田信長は熱田神宮で戦勝祈願し、善照寺砦にて2000~4000?の軍勢をまとめた。
 善照寺砦は佐久間信盛500余りで守らせ、織田信長は約2000を率いて、池田恒興柴田勝家らと出撃し、今川義元の陣営を急襲。毛利良勝が今川義元を討ち取った。
 この「桶狭間の戦い」で、今川勢は松井宗信、久野元宗、井伊直盛、由比正信、一宮宗是、蒲原氏徳などの有力武将も討死し、駿河へ敗走。
 大高城を守っていた松平元康も撤退し、一旦、岡崎城下の大樹寺(松平家菩提寺)に入った。ここで、松平元康は切腹しようとしたと言う。
 しかし、大樹寺の登誉上人は泰平の世を築くべく生きよと諭し、岡崎城を守っていた今川勢の城代・山田景隆が逃亡したと聞くと、空になっていた岡崎城に5月23日入城し、松平家の本拠地である岡崎城を得て、今川家からも脱却する千載一遇の機会を得たのである。


 
 1560年6月4日には、長女・亀姫が駿府で誕生したが、瀬名姫と竹千代(松平信康)らは駿府にて事実上、今川家の人質となっていた。
 ただし、駿府で竹千代の世話をした祖母・源応尼(於富の方)は駿府にてこの年没した。
 今川家を継いだ今川氏真は再三、引き続き味方するようにと松平元康に要求したようだが無視。今川氏真は三河の寺社・国人・商人に多数の安堵状を発給し、松平家を牽制している。

 1561年正月には将軍・足利義輝が、今川氏真と松平元康との和解を促しており、相模の北条氏康(北条早雲の子)が仲介に入ったこともあったが、松平元康は今川家と断交した。
 その一方、今川氏真は三河の国人領主に新たな人質を出すよう要求。これに不満を覚えた国人は、松平元康に加担し、今川側の国人と争いが各地で起きた。
 このように、三河で敵対する勢力を、松平元康は攻撃。

 1561年2月には、東条城への攻撃を開始して吉良義昭と敵対。しかし容易に落ちず、4月15日には善明堤の戦いで、松平好景、板倉好重(板倉勝重の父)など家臣を失ったが、包囲網を敷いて反撃し、9月13日藤波畷の戦いでは、吉良義昭の家老で、武勇名高い富永忠元(富永伴五郎)を、本多広孝が討ち取った。
 これで戦意を喪失した吉良義昭は、東条城を明け渡し降伏。
 この松平元康の反逆に怒った今川氏真は家臣の吉田城代・小原鎮実(大原鎮実)に命じて、松平家の家臣の人質を城下の龍拈寺口で殺害した。

 駿河の今川家との全面対決となった松平元康は、尾張の織田信長への接近を考え、片腕であった石川数正を交渉役として、織田信長との同盟を模索した。
 松平元康の叔父にあたる水野信元が先に織田信長と同盟(織水同盟)すると、水野信元は松平元康に清洲城を訪問するよう説いた。
 そして、1562年、松平元康が清洲城を訪問して、織田信長会見し同盟を締結。「清洲同盟」と呼ばれる由縁である。
 しかし、瀬名姫(築山殿)の父・関口親永は娘婿である松平元康が織田信長と同盟を結んだ事で、今川氏真の怒りを買い、正室と共に自害した。

 松平元康は松平清善らと甲賀衆を用いて上ノ郷城を落とした際に、今川一門である鵜殿氏長鵜殿氏次を捕縛。
 この捕虜の2人と、今川家の人質となっている松平元康の正室・瀬名姫(築山殿)と嫡男・竹千代(松平信康)長女・亀姫との人質交換を成功させ、子供らは岡崎城に入っている。
 しかし、瀬名姫(築山殿)20歳は松平元康の母・於大の方に嫌われていたようで岡崎城に入る事を許されず、菅生川のほとりの惣持尼寺で、幽閉同然の生活を強いられたという。

 1563年、今川義元からもらっていた字の「元康」を改名して「家康」に変更し、松平家康となった。
 1563年3月には、嫡男・松平信康と織田信長の娘・徳姫が婚約し、より織田信長との関係を深めた。しかし、まだ2人共5歳であった為、結婚は9歳(1567年)となる。
 その、1563年1月に三河一向一揆が勃発。本多正信本多正重、渡辺守綱、蜂屋貞次、酒井忠尚、夏目吉信、内藤清長、加藤教明ら家臣の半分が一向一揆に味方し、一族も分裂するなど松平家の内紛とも言えた。吉良家などの有力豪族や今川家の残党なども加わり、岡崎城まで攻められるなと松平家康は窮地に陥るも、1564年1月15日の馬頭原合戦の勝利で、松平家康は優位に立ち、和議に持ち込んで一揆の鎮圧・解体に成功した。
 出奔した家臣もいたが、帰参を願う本多正信など敵対した家臣にも寛大な処置で許し、これ以降は三河への対応が遅れている今川家への戦略を進めた。
 1566年頃までには、ほぼ三河を統一。12月には朝廷から従五位下・三河守の叙任を受け「徳川」に改姓し、徳川家康と名乗った。
 この時、朝廷に新田氏支流得川氏系統の清和源氏であること認めてもらおうとしたが、その当時、源氏長者が京にいなかったこともあり果たせず、この時は氏を藤原氏とし、後年、豊臣秀吉への臣従の証としての豊臣氏を経て、豊臣秀吉の死後、源氏への改姓を果たしている。

 1567年5月、嫡男・徳川信康(竹千代)が織田信長の娘・徳姫と結婚した。共に9歳で、形式上の夫婦とはいえ岡崎城で暮らしたと言う。
 1567年6月、徳川家康は浜松城(浜松市中区)に居城を移し、岡崎城を嫡男・徳川信康に譲った。
 1567年7月、嫡男・徳川信康は元服して、織田信長より偏諱の「信」の字を、父・徳川家康から「康」の字をそれぞれ与えられて、この時正式に徳川信康となった。

 1568年、織田信長が室町幕府13代将軍・足利義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛の途につくと、徳川家康も援軍を派遣した。

武田信玄武田勝頼との戦い

 1568年12月6日、甲斐の武田信玄は12000の兵力にて駿河の今川領へ侵攻を開始(駿河侵攻)。今川家は瀬名信輝、朝比奈政貞、三浦義鏡、葛山氏元らが武田信玄に内通し、ほとんど戦わずに敗れ、12月13日、武田勢が駿府に入ると、今川氏真は遠江・掛川城の朝比奈泰朝を頼って落ち延びた。
 この時、今川家と敵対していた徳川家康は、酒井忠次を取次役に命じて、大井川より西側の割譲を条件に武田信玄と同盟しており、徳川家康も12月13日に駿河侵攻を開始。井伊谷城や白須賀城、曳間城(のちの浜松城)を落として12月27日に掛川城を包囲した。
 相模の北条氏政は、今川氏真からの救援要請に答え、12月12日に小田原を発ったが、時遅く伊豆の三島で対陣するに留まった。
 武田信玄はその後、兵糧の欠乏と北条氏政の抵抗もあり、江尻城に穴山信君を残して、1569年4月28日から撤兵し甲府に一時帰還した。

 徳川家康は、武田勢の秋山信友ら下伊那衆が遠江を侵したとして抗議するなどし、5月になって武田信玄との同盟を解消し、駿河を占領。
 5月17日には、北条氏政の仲介もあり、掛川城の今川氏真を降伏させた一方で、徳川家康は北条氏政と同盟を結んだが、今川家は事実上滅亡し、遠江は徳川家康の手中に入った。
 今川勢を破りはしたが、駿河を支配できなかった武田信玄は体制を整えると、6月には伊豆の北条領を侵攻して北条勢を牽制しつつ、駿河・大宮城を占領した。
 1669年10月になると、武田信玄は碓氷峠から北条の小田原城攻めを開始して、滝山城などを牽制しつつ、小田原城下へ突入した。しかし、すぐに撤退開始すると、途中の三増峠の戦い北条氏照北条氏邦らと戦っている。
 甲府に戻った武田信玄は、すぐさま11月に駿河に再び侵攻して横山城、蒲原城などを落として駿府を占領。1570年1月には駿河西部に進出して花沢城と徳之一色城(後の田中城)を落とし、駿河を完全に支配下に置いた。

 1570年、徳川上保は本拠地を岡崎から遠江の曳馬城に移し、この地を「浜松」と改名し、浜松城を築いて本城とした。
 1571年、相模の北条氏康が死去すると、北条氏政は外交方針を転換して武田信玄と和睦。北条家に身を寄せていた今川氏真は浜松城の徳川家康のもとに行き、以後、徳川家康の世話を受けて生活した。
 武田家は織田家とは友好関係であったが、織田信長と反目した将軍・足利義昭は朝倉義景浅井長政石山本願寺ら反織田勢力を使い「信長包囲網」を企て、武田信玄もこれに加わり挙兵した事で、徳川家康の遠江・三河は1572年10月に、約30000の武田信玄に侵攻される。
 約15000の徳川家康は織田信長に援軍要請したが、織田信長は近畿各地の反乱鎮圧に追われており、三河は徳川家康単独で武田信玄に対応するしかなかった。

 遠江に侵攻してきた武田信玄の本隊と戦うため、徳川家康は天竜川を渡って見附(磐田市)にまで進出。
 要衝・二俣城の防御の為、武田勢の動向を探るために威力偵察に出たところを武田勢と遭遇し、一言坂の戦いで敗走した。徳川家康は劣勢となり、12月、二俣城は落城。(二俣城の戦い)。
 これに織田信長からは、佐久間信盛、平手汎秀ら3000の援軍が送られたが、浜松城に武田信玄の本隊が迫ったため籠城した。
 しかし、籠城する徳川家康の浜松城を素通りする形で、武田勢は三方ヶ原台地を通過し、三河へ向けて進軍。

 12月22日、徳川家康は、浜松城から討って出る決心をし、三方ヶ原から祝田の坂を下る武田信玄を背後から襲うため、浜松城から追撃に出た。
 しかし、武田勢は魚鱗の陣を布いて待ち伏せしており、徳川家康は鶴翼の陣をとって攻撃を開始した。しかし、兵力・戦術面ともに劣る徳川家康に勝ち目はなく、わずか2時間で甚大な被害を受けて敗走。鳥居四郎左衛門、成瀬藤蔵、中根正照、青木貞治らが討死し、織田家の平手汎秀らも討死した。
 徳川家康も、あわや討死寸前まで追い詰められ、夏目吉信や鈴木久三郎ら家臣を身代わりにし、成瀬吉右衛門、日下部兵右衛門、小栗忠蔵、島田治兵衛といった僅かな供回りのみで浜松城へ辛くも逃げ帰った。(三方ヶ原の戦い)

 この時、徳川家康は恐怖のあまり、馬上にて脱糞したとも伝えられ、浜松城へ到着した徳川家康は、全ての城門を開いて篝火を焚き、いわゆる空城計を行ったと言う。
 山県昌景らは浜松城へ追撃したが、空城の計と判断し、退却している。
 1573年1月、武田勢は東三河の要所である野田城を攻略(野田城の戦い)。しかし、武田信玄の病状が思わしくなく、西上作戦を切り上げて武田勢は長篠城まで退き、甲斐へ撤退を開始。
 帰路の1573年4月12日に武田信玄は病死した。

 徳川家康は、武田勢の嫁勢の撤退にまた戦略か?と疑念を抱き、生死を確認するため武田領である駿河国の岡部に放火し、三河では長篠城を攻めて奪還するなどした。しかし、武田勢の抵抗がほとんどなかったことから、武田信玄の死を確信した徳川家康は、武田氏に降っていた奥三河の奥平貞能・奥平貞昌親子を調略し、帰属させている。
 そして、奪回していた長篠城には奥平氏を配して武田勝頼の再侵攻に備えた。

 織田信長は包囲網の黒幕である足利義昭を河内国に追放。さらに越前や近江にも攻め浅井長政・朝倉義景を滅ぼした。

 織田信長・徳川家康の勢力回復に懸念を抱いた武田勝頼は、1574年2月、東美濃の織田領に侵攻し明知城を攻略。6月には遠江の徳川領に侵攻し、武田信玄でも落とせなかった高天神城を陥落さ、城将・小笠原長忠を降し、東遠江をほぼ平定した(高天神城の戦い)。さらに9月、天竜川を挟んで徳川家康と対陣し、浜松城に迫ると城下に放火などしている。
 そして、1574年4月、武田勝頼は上杉謙信の抑えに、海津城高坂昌信10000を配置したうえで、徳川家康に寝返った奥平貞能・奥平貞昌を討つ為、15000を率いて三河へ侵攻し、5月には長篠城を包囲。奥平氏が善戦している間に、織田信長・徳川家康連合軍38000が、長篠(設楽ヶ原)に到着し、馬防柵を含む陣城の構築を開始した。
 5月20日早朝、酒井忠次と織田勢・金森長近らが長篠城を包囲している武田勢を強襲し、武田勝頼の家臣・河窪信実(武田勝頼の叔父)をはじめ、三枝守友、五味貞成、和田業繁、名和宗安、飯尾助友らが討死。(鳶ヶ巣山攻防戦)
 退路を断たれそうになった武田勝頼は織田信長・徳川家康に決戦を挑むが、巧みな陣城をあちこちに配置した織田・徳川連合軍に阻まれ、河窪信実・三枝守友・高坂昌澄らが討死し武田勢は総崩れ。敗走する際、馬場信春、山県昌景、内藤昌豊、原昌胤、真田信綱真田昌輝、原昌胤、原盛胤、土屋昌続、土屋直規、安中景繁、望月信永、米倉重継など武田勝頼は有力家臣を多数失った。
 これにより徳川家康は三河を完全に掌握し、遠江の重要拠点である諏訪原城、二俣城、高天神城を攻略して行く。
 長篠城主・奥平貞昌はこの戦功により、織田信長の偏諱を賜り「奥平信昌」と改名し、徳川家康は名刀・大般若長光を授けた他、1575年には長女・亀姫を嫁がせ、一門衆に加えている。

 1578年、上杉謙信が没すると、上杉家では御館の乱が勃発。北条家の要請を受ける形で武田勝頼は北信濃に出兵したが、武田勝頼は上杉景勝に協力。北条家が擁した上杉景虎(実父は北条氏康)との上杉家の家督争いに、上杉景勝が勝つと、武田家・北条家の甲相同盟が破綻し、1579年9月に北条氏政は徳川家康と同盟を結んだ。
 この間、徳川家康は横須賀城などを築き、多数の付城によって高天神城への締め付けを強化している。
 また、1579年4月7日には、徳川家康の側室・西郷局が、浜松にて徳川秀忠を生んでいる。
 なお、この頃、徳川家康の嫡男である徳川信康に、いっこうに男子が生まれない事を憂いた徳川家康の正室・築山殿(瀬名姫)は、元武田家臣で後に徳川家の家臣となっていた浅原昌時の娘で、部屋子をしていた女性を、徳川信康の側室に迎えさせた。
 今川の血を引く姑の築山殿との折り合いが悪く、夫・徳川信康とも不和になった、徳川信康の正室・徳姫(織田信長の長女)は、築山殿が徳姫に関する讒言を徳川信康(岡崎信康)にしたことや、築山殿と唐人医師減敬との密通があったこと、武田家との内通があったことなど、12ヶ条からなる訴状を使者として織田信長の元に赴く徳川家重臣・酒井忠次に託した。
 織田信長はことの真相を確かめるべく、酒井忠次に問いただしたが、酒井忠次は概ね認めたために、織田信長は徳川信康の切腹を命じた。
 武勇も優れ人望もあった嫡男・徳川信康の処遇に徳川家康は苦慮したが、織田信長には逆らえないと判断し、徳川信康を二俣城に幽閉。そして、まずは築山殿を処断した。
 8月29日、築山殿は二俣城への護送される際、佐鳴湖の畔で、徳川家臣の岡本時仲、野中重政により殺害された。享年38。
 更に徳川家康は二俣城にて謹慎していた徳川信康に切腹を命じた。これを受け、徳川信康は9月15日に切腹。享年21。介錯人は服部正成(服部半蔵)だったが、服部正成は徳川家康の主命とはいえ、「三代相恩の主に刃は向けられない」と言って涙し、主筋に刃を向けることが出来ず、検死の武士・天方道綱が介錯したと言う。
 徳姫は1580年2月20日に徳川家康に見送られて岡崎城を出立。2人の娘は徳川家康の元に残して、美濃・織田領に帰った。しかし、父の織田信長の元ではなく兄・織田信忠の元に身を寄せている。

 横須賀城など多数の付城を築いて、武田勝頼配下の高天神城への締め付けを強化していた徳川家康は、1580年の暮れに5000の兵力にて高天神城を囲って、兵糧攻めを開始した。
 高天神城は岡部元信が守備していたが、武田勝頼は援軍を出せずいた。
 織田信長は、徳川家康に対して「高天神城の降伏を許さないように」という書状を送り、武田勝頼が高天神城を見殺しにしたという形にすることで、武田家の威信が失墜することを狙っていたようだ。
 高天神城では城兵の大半が餓死し、1581年3月25日22時頃、武田勢はついに城から討って夜襲を掛けたが、徳川家康や本多忠勝らはこれを撃退し688の首を討ち取ったと言う。岡部元信は大久保忠教の家臣に討たれて討死した。

 高天神城に援軍を送る国力すら失っていた武田勝頼は、織田・徳川連合軍への防備を固めるため新府城の築城を急がせる一方で、越後・上杉景勝との甲越同盟締結、相模・北条氏との甲相同盟の破綻に際して、佐竹義重を介して織田信長との和睦(甲江和与)を模索し、1581年11月、武田信玄の養子(人質)となっていた織田勝長(おだかつなが)を返還した。
 しかし、織田信長は武田勝頼を攻める姿勢を崩さず、正親町天皇に武田勝頼を東夷(朝敵)と認めさせている。

織田信長の武田攻め

 武田家は上野戦線では真田昌幸の活躍もあって北条方を圧倒していたが、没落しはじめた武田家の行く末に不安を抱いた武田勝頼の家臣が増え、まず、新府城造営の賦役増大と重税に不満を募らせた木曽義昌が、1582年2月1日、遠山友忠を仲介役として織田信長と盟約を結び、武田勝頼に対し反旗を翻した。
 木曾義昌の正室・真理姫(武田信玄の娘)は自ら木曽義昌と離別し、木曾山中から逃亡して謀反を武田勝頼な知らせた。
 武田勝頼は激高し、すぐさま武田信豊5000を先手に木曾征伐へ向かわせ、さらに人質に取っていた木曽義昌の生母・側室・子供を処刑。
 そして、武田勝頼本隊も15000で出陣したが雪に阻まれ進軍は困難を極めたと言う。

 木曽義昌が寝返ったと聞いた織田信長は、2月3日に甲州征伐(武田攻め)を決定。
 織田信長・織田信忠は伊那から進軍。織田信長家臣・金森長近らは飛騨方面から、徳川家康は駿河方面から、徳川と同盟したいた北条氏政は相模・伊豆・上野から甲斐・信濃へ進軍することになった。
 2月14日には浅間山が噴火。当時、浅間山の噴火は東国で異変が起こる前兆だと考えられており、このタイミングでの噴火で、武田家中は大いに動揺したと言う。
 織田勢の織田信忠、河尻秀隆滝川一益らの先発隊は2月17日、飯田へ侵入。
 武田勢の今福昌和は2月16日、鳥居峠で織田信忠の馬廻衆の支援を受けた木曾義昌勢と戦闘。武田勢は跡部治部丞や有賀備後守ら40余り討ち取られ敗走した。
 2月18日、飯田城主・保科正直は城を捨てて高遠城へ逃亡。飯田城放棄を知った武田信廉(武田勝頼の叔父)らは戦意喪失し2月17日、大島城から逃亡。
 一方、徳川家康は2月18日に浜松城を出発。掛川城に入り2月20日には依田信蕃が守備する田中城を包囲。2月21日には駿府城に進出した。
 北条氏政は、小仏峠や御坂峠などに軍を進めたが、徳川家康から攻撃予定などを知らされず、結果的に進軍速度が低下していた。

 武田勝頼・武田信豊は諏訪の上原城で織田勢を迎え撃とうと考えていたが、穴山梅雪の不穏な動きや相次ぐ家臣の離反もあり、2月28日、新府城に撤退開始。

 3月1日、織田信忠は武田勝頼の弟・仁科盛信3000が籠城する高遠城を包囲。3月2日、織田勢30000で総攻撃した。仁科盛信と小山田昌行は奮戦したが自刃し、今福昌和・諏訪勝右衛門・小山田昌貞・小幡一族らも散り、高遠城は落城した。仁科盛信 享年26。
 同じ、3月1日、駿河江尻城主・穴山梅雪(穴山信君)が徳川家康に通じ、織田信長に寝返った。武田勝頼に人質として預けていた妻子は2月25日に奪還していたのだ。
 3月4日、徳川家康は、穴山梅雪を案内役として甲斐への侵攻を開始。
 この穴山梅雪(穴山信君)の正室は武田信玄の次女・見性院で、武田家親族衆(一門衆)でも筆頭の地位であった為、穴山梅雪(穴山信君)の離反は武田勝頼を追い詰めた。
 ちなみにも、見性院は、のち徳川家康に保護されて江戸城・北の丸に邸を与えられ、2代将軍の徳川秀忠が侍女のお静に生ませた子(幸松、後の保科正之)を養育している。

 武田勝頼を追う織田信忠は高遠城陥落の翌日、本陣を諏訪に進め諏訪大社を焼き払っている。
 織田信長は3月5日に安土城を出発。
 新府城に入っていた武田勝頼だったが、兵も多くは逃亡し、既に軍勢は1000程度。
 今度は誰が裏切るのかと、家臣も互いに疑心暗鬼に陥っており、新府城も未完成であった事からも、籠城は困難と判断。更に逃亡する為、3月3日に軍議を開く。真田昌幸の岩櫃城に逃亡するか、小山田信茂岩殿城に逃亡するか検討し、未完成の新府城に火を放つと、岩殿城目指して逃亡開始した。この際、最後まで付き従う家臣の人質には金銭を渡し開放したと言うが、武田勝頼を裏切った家臣の妻子で処刑された人数は300程もあったと伝わる。
 武田信豊は、一族の下曽根信恒(覚雲斎)が守る小諸城へ逃れるも、下曾根浄喜に叛かれ、二の丸に火を掛けられ嫡男や生母、家臣とともに自害。享年34。
 3月7日に織田信忠は甲府に入り、一条蔵人の私宅に陣を構えた。そして、武田勝頼の一門・親類や重臣を探し出し、一条信龍・諏訪頼豊・武田信廉、山県昌景の子らを処刑。
 3月9日、武田勝頼らは岩殿城を目前にした笹子峠で小山田信茂の裏切りに会い攻撃され、岩殿行きを断念し、武田勝頼主従らは武田氏の先祖が自害した天目山を目指した。
 新府城を出た時500~600人いた兵は、続々と逃亡し、最後にはわずか41人になっていたと言う。

 3月11日、徳川家康と穴山梅雪は、織田信忠と合流・面会し、今後について相談。同じ3月11日、武田勝頼一行は天目山の目前にある田野で、滝川一益隊に捕捉され、僅かな手勢で抵抗したが、武田勝頼(享年37歳)、武田信勝(享年16歳)・桂林院殿は自害し、長坂光堅、土屋昌恒・秋山親久、秋山紀伊守らも殉死。これにより、名門である甲斐・武田氏嫡流は滅亡した。
 最後に裏切った小山田信茂は、のち、織田信忠により処刑されている。

 武田勝頼は跡継ぎの武田信勝が元服(鎧着の式)を済ませていなかったことから、天目山で自害する直前に、急いで陣中にあった楯無を着せて自刃したという悲しい話が残っている。その楯無(鎧)は武田家臣に託され、向嶽寺の庭に埋められたが、後年、徳川家康が入国した際に掘り出し、菅田天神社に納められた。(現在は国宝)

 徳川勢が包囲していた田中城の依田信蕃は、唯一依然として抵抗した為、武田家臣となった時代もあった成瀬正一が山本帯刀(山本勘助の弟? 後、越後長岡藩家老)と共に説得するも応じず、穴山梅雪(穴山信君)からの開城を勧める書簡を受けてから、ようやく大久保忠世に引き渡した。のち、徳川家康の死因とも言われている鯛の天ぷらを食した場所はこの田中城である。

 田中城開城後、徳川家康は最後まで抵抗した依田信蕃を家臣に加えようとしたが、依田信蕃は謝絶し自領の佐久・春日城へ帰還。恵林寺快川紹喜焼き討ちなどが起こるなか、小諸城代となった森長可と対面したあと、徳川家康の計らいで二俣の小川郷に大久保長安らと共に蟄居し、織田信長の武田残党狩りの難を逃れている。その後、依田信蕃は徳川家康の家臣に加わり、真田昌幸ら旧武田家臣を徳川家康の配下に加え、北条氏政を撃退するなどの戦功により小諸城主となった。

 3月21日に織田信長は諏訪に到着し、北条氏政の使者から戦勝祝いを受け取ている。そして、3月23日と3月29日には参加諸将に対する論功行賞が発表された。
 徳川家康は駿河一国が与えられ、穴山梅雪は本領である河内を安堵。嫡子・穴山勝千代に武田家の名跡を継がせ、武田家当主とすることが認められた。木曾義昌は、木曾谷の本領安堵の上、筑摩郡・安曇郡を加増。
 しかし、武田攻めに協調したものの徳川家康から武田攻撃に関する情報を十分に得らず、新たな領土を得られなかった北条氏政は徳川家康との同盟に疑問を抱くようになった。

 4月に入ると織田信長は甲斐に向かい、その途中の台ヶ原(北杜市)で、生涯初めて「富士山」を見たとされる。
 4月3日には、武田氏歴代の本拠である躑躅ヶ崎館の焼け跡に到着。4月10日に織田信長は甲府を出発し、4月12日には本栖城を出発して、富士山を望みながら東海道を遊覧。
 織田信長は4月13日に浅間神社、14日に江尻(静岡市清水区)、15日に田中、その後、徳川家康は駿府城において織田信長を接待した。
 この時、徳川家康は莫大な私財を投じて街道を整備し宿館を造営して、織田信長を歓迎したと伝わり、その返礼となったのが、本能寺の変直前の徳川家康外遊となったのだ。
 織田信長は、16日に天竜川を渡り浜松城、19日清洲城、21日には安土城にと凱旋した。
 また、三河一向一揆の折に出奔し、諸国を流浪していた本多正信が、旧知の大久保忠世を通じて徳川家康への帰参を嘆願し、この頃までに徳川家に帰参している。

本能寺の変と徳川家康

 1582年5月、駿河拝領の礼のため、織田信長の招きに応じて、徳川家康は穴山梅雪(穴山信君)とともに安土城を訪れ、5月15日に到着した。
 しかし、織田信長が徳川家康を謀殺するために呼び寄せたのではと警戒する家臣の意見もあり、本多忠勝など選り抜きの有力家臣と共に、徳川家康は行動した。
 当初は、明智光秀が接待役を務めていたが、17日に織田信長により接待役を解任され、丹羽長秀堀秀政に交代している。
 徳川家康は5月19日、総見寺で行われた歓待の宴に招かれ、20日には高雲寺でも接待を受けている。
 21日、大阪と堺の見物に出発。織田信長が案内役として長谷川秀一、西尾吉次を同行させた。
 6月1日には堺の津田宗及宅の茶会に徳川家康と穴山梅雪らが参加している。

 その徳川家康が堺を遊覧中の6月2日に、京で本能寺の変が勃発。京の御用商人・茶屋四郎次郎が早馬を飛ばして、飯盛山に滞在していた徳川家康一行に報告したと言う。
 このときの徳川家康に随行していた供廻は下記の通り。

 本多忠勝、井伊直政榊原康政、酒井忠次、石川数正、本多正盛、石川康通、服部正成、高木広正、大久保忠隣、菅沼定政、久野宗朝、本多信俊、阿部正勝、牧野康成、三宅正次、高力清長、大久保忠佐、渡辺守綱、森川氏俊、酒井重勝、多田三吉、花井吉高、鳥居おます、内藤新五郎、都筑亀蔵、松平玄成、菅沼定利、永井直勝、永田瀬兵衛、松下光綱、都筑長三郎、三浦おかめ、青木長三郎、合計34名。

 上記の通り少人数であったため、襲われたら大変危険な状態であり、一時、徳川家康は織田信長の後を追って自害すると言いだしたが、本多忠勝に説得されて翻意。
 服部半蔵の進言を受け、伊賀の険しい山道を越えて、伊勢から海路で三河に向かう事になった。

 茶屋四郎次郎は行く先々で、金子を渡して土豪などを懐柔し、本多忠勝は落ち武者狩りを回避する策として、村の長に道案内させたと言う。
 また、敵地である伊賀では服部正成(服部半蔵)の配下の功績も大きかったが、長谷川秀一が十市城主・十市遠光や宇治田原城主・山口甚介護衛、伊賀の多羅尾光俊らに協力を要請するなどし、尾張の熱田まで援助した事もあり、徳川家康は窮地を脱した。(神君伊賀越え)

 同行していた西尾吉次は最後まで徳川家康と共に行動し、そのまま徳川家康の家臣となっている。

 一方、穴山梅雪は、相楽郡山田辺りから徳川家康と別行動にて甲斐を目指したが、現在の木津川河畔(現在の京都府京田辺市の山城大橋近く)で、落ち武者狩りの土民に襲撃されて殺害された。
 なお、この1582年に徳川家康は側室として、秋山虎泰の娘で穴山信君の養女・下山殿(18歳)を迎えているが、この下山殿(於都摩)が1583年9月3日に生んだ、徳川家康の5男・松平信吉が、元服後、穴山家の名跡を継ぎ、武田信吉(武田信義)となっている。

武田旧領を巡る徳川・北条・上杉の争い

 徳川家康は、三河に戻ると1582年6月4日、謀反人・明智光秀を討つため直ちに軍勢を発した。

 一方で、僅か3ヶ月前に滅亡した武田の甲斐・信濃では大量の一揆が起こり、上杉景勝や北条氏政も侵攻の構えを見せた為、甲斐を与えられていた河尻秀隆を支援するという名目で、徳川家康は家臣を甲斐に派遣し、穴山梅雪遺領の掌握を図り、信州・佐久には旧臣の依田信蕃を向かわせた。
 依田信蕃は檄を飛ばして武田遺臣900人弱をかき集め、真田昌幸も味方につけるなどして、小諸城に入った。

 また、徳川家康は河尻秀隆を美濃に逃亡させよう本多信俊を使者として送るが、河尻秀隆は徳川家のさ策略と見抜き、本多信俊を殺害し、甲斐に留まって一揆鎮圧に努力したが、一揆に対応しきれず、甲斐から脱出を試みるも、岩窪において武田遺臣の三井弥一郎に6月18日に殺害された。

 徳川家康は打倒・明智光秀の軍勢は尾張・鳴海まで進軍したところの6月15日に、中国地方から戻った羽柴秀吉によって明智光秀がすでに討たれたとの報を受けると、酒井忠次を津島に前進させ情報を確認し、21日に軍を返して浜松城へ戻った。

 無法地帯となった甲斐へと、すぐに酒井忠次・奥平信昌に先行させ、徳川家康は本隊8000を率いて7月9日に甲斐・甲府へ到着。やや遅れていた上杉景勝は、6月22日に長沼城に入っていた。

 北条氏直・北条氏照らの軍勢は、滝川一益を撃破して、碓氷峠を越えて6月26日には佐久を平定し、7月9日には滝川一益の家臣になっていた真田昌幸が北条家に降伏。依田信蕃も小諸城を北条家に奪われた。
 しかし、お互いに信濃を支配したい上杉景勝と北条氏直の軍勢は、川中島で対峙。しかし、徳川家康に挟み撃ちされるのを恐れた北条氏直は、上杉景勝と和睦し、北信濃4郡(更級郡、高井郡、水内郡、埴科郡)は上杉景勝の所領となった。
 尾張では6月27日に「清洲会議」が開催され、羽柴秀吉が柴田勝家を抑えて、織田家の権力を握ろうとしていた。

 北条方となっていた諏訪頼忠が籠る諏訪・高島城を酒井忠次ら3000の徳川勢は攻撃していたが、北条氏直43000が佐久から甲斐に侵攻すると言う報を受けて、8月1日に甲斐に撤退。
 酒井忠次は新府城に籠城し、北条氏直は8月6日に若神子城に入り敵対した。(天正壬午の乱)

 徳川家康は甲府の防衛に鳥居元忠2000を配置して、5000を率いて新府城の酒井忠次と合流し8000となった。
 小田原城の留守を守っていた北条氏政は、北条氏忠・北条氏勝ら10000にて郡内を制圧させ、秩父からは北条氏邦を進軍させた。
 その一方で、依田信蕃は北条の小荷駄隊を狙ったゲリラ戦を展開し、北条家の補給を滞らせた。

 北条氏忠・北条氏勝勢10000が、徳川家康の背後を襲うべく郡内の谷村城から御坂峠を越えて進撃。これに対し、甲府を発った鳥居元忠・三宅康貞・水野勝成ら2000が、8月12日に御坂峠を下った黒駒付近で果敢に応戦し、北条勢約300を討ち取って勝利した(黒駒合戦)。

 8月22日には、木曾義昌が再度安曇・筑摩両郡および木曽谷安堵の約定を得て、徳川家康と同盟を結び、9月には上杉景勝と北条氏直の和睦の結果、所領を失う羽目になった真田昌幸が北条家から離反して、依田信蕃とゲリラ活動を開始すると、徳川家康は曽根昌世らを依田信蕃・真田昌幸らに加勢させて支援した。

 10月には、依田信蕃が大道寺政繁を破って小諸城を奪還。

 戦力的には北条勢が有利であったが、大軍での長期戦になると補給はただでさえ困難であり、小笠原貞慶も徳川家康の支援を受けて深志城(松本城)に入るなど信濃の武将を徳川家康は取り込んでいった。
 このように情勢は北条不利となり、関東では佐竹義重も行動を開始した為、北条家は徳川家康に板部岡江雪斎を使者として送り、織田信雄織田信孝の仲介もあり、10月29日北条氏直と徳川家康は和睦。

 甲斐・信濃は徳川家、上野は北条家として、更に徳川家康は翌年に娘である督姫を北条氏直の正室として嫁がせる事で講和。
 徳川家康は北条氏直と縁戚・同盟関係を結び、甲斐・信濃・駿河・遠江・三河の5ヶ国を領有する大大名になった。

 徳川家に味方していた真田昌幸は、佐久と沼田・吾妻を領していたが、徳川と北条の和睦での沼田・吾妻を明け渡す事を拒み、1583年から新たに上田城を築城して徳川家康に抵抗した。
 1583年2月23日、北条方の大井行吉の岩尾城を攻略しようとし、鉄砲傷を受けていた小諸城主・依田信蕃が死去。(享年36)

小牧長久手の戦いと、徳川・北条の同盟

 1583年4月には、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破り、更に影響力を強めた。
 1583年8月15日には、徳川家康の娘・督姫(19歳)が、北条氏直(21歳)に嫁いだ。
 1583年の暮れに、羽柴秀吉は大阪城を築城。

 羽柴秀吉に対抗する織田信雄は、安土城を退去させられ、妹・徳姫の縁もあり、徳川家康に協力を求めた。
 羽柴秀吉は、更に調略で関盛信(関万鉄)、九鬼嘉隆織田信包ら伊勢の諸将を味方につけ、徐々に織田信雄を追い込む。

 織田信雄は1584年3月6日、羽柴秀吉に内通した疑いにより、家老の津川義冬・岡田重孝・浅井長時を殺害。
 徳川家康は織田信雄の要請を受けて、3月7日に出陣し、3月13日に清洲城に入った。しかし、池田恒興が突如動き出し、羽柴秀吉に味方して犬山城を占拠。
 これに対抗する為、徳川家康は3月15日に小牧山城付近に展開。

 羽柴勢の森長可も小牧山城を狙っていたが、酒井忠次、榊原康政ら5000で奇襲し敗走させ、徳川家康は3月18日に小牧山城を占拠した。
 羽柴秀吉は大阪城を3月21日に出発し、3月27日に犬山城、4月5日に楽田(犬山市)に着陣した。

 しかし、徳川家康が小牧山城に入ってから、砦の修築や土塁の構築を行った為、手が出せなくなり挑発や小競り合いを除けば、戦況は全くの膠着状態に陥った。
 この状況を打開するため羽柴秀吉は、徳川領の三河を狙う作戦に出る。

 4月6日夜に、羽柴秀吉は池田恒興、池田元助、池田輝政、森長可、遠藤慶隆、関成政、堀秀政、堀直政、多賀秀種、羽柴秀次、田中吉政、長谷川秀一ら約20000にて、岡崎城に向けて進軍開始。
 徳川家康は、伊賀衆などを使い偵察を行わせるなどして、羽柴勢の動きを察知し、4月8日に小幡城に入ると、追撃軍の陣立てを行い、丹羽氏次・水野忠重と榊原康政・大須賀康高ら4500を先発させた。

 池田恒興勢が丹羽氏重が守備する岩崎城を落城させるなど先を急いだことで、羽柴勢は戦線が長くなり羽柴秀次、森長可、堀秀政の各部隊はそれぞれ長く伸びた状態となった。
 その羽柴秀次を3月9日に、水野忠重・丹羽氏次・大須賀康高・榊原康政らが一斉に奇襲攻撃。
 羽柴秀次勢が敗走すると、堀秀政は直ちに引き返し、羽柴秀次の残兵を組み込んで、迫り来る徳川勢に備えたが、戦上手と呼ばれた堀秀政ね徳川勢の勢いは抑えられず敗退。

 徳川家康本隊9000は、池田恒興と森長可を分断。すると、羽柴勢は慌てて退却を開始したが、池田恒興・森長可ら9000と桧ケ根の戦いとなった。
 森長可は鉄砲の銃弾を眉間に受け討死。池田恒興も永井直勝の槍を受けて討死。嫡男・池田元助も安藤直次に討ち取られ、次男・池田輝政は辛くも戦場を離脱し、羽柴秀吉と徳川家康の戦いは、徳川家康の大勝利となった。(長久手の戦い)
 その後、羽柴秀吉20000も大規模な戦闘は避けた為、全面衝突のないまま推移し、合戦は外交戦の様相となった。

 徳川家康は北条家だけでなく、土佐・長宗我部家ら遠方の諸大名も迎合。
 羽柴秀吉は越後・上杉景勝や安芸・毛利輝元、常陸・佐竹家ら、徳川家と対抗する諸勢力を味方にする一方、加賀井重望が守る加賀野井城など、織田信雄の美濃諸城を次々と攻略した。

 なお、羽柴秀長蒲生氏郷筒井順慶藤堂高虎ら別働隊が織田信雄領である伊賀・伊勢に侵攻し占領。
 羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄は11月に和睦し、講和条件として、織田信雄は伊賀と伊勢半国を譲渡し、戦線を離脱。
 織田信雄が離脱した事で、徳川家康も軍勢を引き上げた。

 その後、軍事力・経済力共に優勢な羽柴秀吉は滝川雄利を使者として浜松城に送り、徳川家康は次男・於義丸(結城秀康)を、羽柴秀吉の養子に差し出している。

 織田信雄と徳川家康がそれぞれ単独で羽柴秀吉と和睦した為、紀州の雑賀衆・根来衆や四国の長宗我部元親らは孤立し、それぞれ羽柴秀吉の紀州攻め・四国攻めにより制圧された。
 佐々成政は雪深い立山を越えて、浜松城の徳川家康を訪れ、羽柴秀吉への抵抗を促している。

真田昌幸との上田合戦から豊臣臣従

 先の和睦で決定していた沼田・吾妻が、なかなか北条家の領地にならないので、北条家は徳川家との同盟の約束が履行されていないと徳川家康に抗議。
 1585年、徳川家康は甲斐に入り、上田城の真田昌幸に、沼田・吾妻を北条家に譲るように促したが、真田昌幸は「沼田・吾妻は徳川家から与えられた領地ではないことを理由に拒否」
 一旦、徳川家康は浜松城に帰還していたが、7月に、真田昌幸が越後の上杉景勝に真田幸村(真田信繁)を人質に送って臣従したと聞くと、8月に真田討伐の軍勢7000、鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉らを出陣させた。

 上田を守る真田勢は総勢約1200人と少数であり、真田昌幸は上田城で籠城、長男・真田信幸(真田信之)は戸石城、矢沢頼康矢沢城に上杉景勝の援兵と共に篭城した。
 (下記の写真は上田城の西楼)

 閏8月2日に、鳥居元忠らは上田城を攻め、二の丸まで進んだが、ここで真田昌幸の反撃を受け撤退。更に後退の際に追撃も受け、戸石城の真田信幸(真田信之)や、矢沢頼康も討って出たことから徳川勢は壊乱し1300人が戦死。真田勢の死者は40人ほどで、劣勢な真田が巧みな戦術を持って、徳川に勝利した。
 翌日、徳川勢は真田氏に味方していた丸子城主・丸子氏も攻めたが、頑強な抵抗に阻まれ攻略できず、以後、真田と20日間程対陣を続けた。
 これに徳川家康は援軍として井伊直政、大須賀康高、松平康重ら5000を送ると共に一時撤退を下令し、徳川勢は8月28日に上田より撤退した。
 その後も、大久保忠世ら諸将は小諸城に留まり真田勢と小競り合いを繰り返すも、こうした情勢の中、9月に羽柴秀吉は徳川家康に更なる人質の差し出しを求め、徳川家中は酒井忠次・本多忠勝ら豊臣政権に対する強硬派と、石川数正ら融和派に分裂。さらに7月に関白に就任した羽柴秀吉と和睦するかも知れないと言う関係は、北条家とも緊張を生じさせた。
 そんな中、11月13日に徳川家康が今川義元の人質だった頃から近習として仕えてきた徳川譜代の重臣・石川数正が出奔し豊臣秀吉の家臣になると言う事件が起こり、徳川勢は佐久・上田から完全に撤退した。
 この上田合戦(第1次上田城の戦い)に連動して1585年9月から1586年5月まで、北条家も沼田城に数回に渡って攻撃したが、真田昌幸の叔父・矢沢頼綱(矢沢頼康の父)が撃退に成功している。

 なお、石川数正が羽柴秀吉の家臣になったことで、徳川家の機密も漏れた為、徳川家康は戦場での合図や軍の組織などの軍制を刷新。
 今までの旗本先手役という、岡崎城(石川数正)、吉田城(酒井忠次)、本多忠勝・榊原康政といった支配地域や重臣ごとに兵をつけていた独自の徳川軍制を廃止した。
 徳川家康は旧武田家臣の成瀬正一に命じて、武川衆による「武田式軍法」へ大々的な軍制改革を実施し「大番頭」と呼ばれる大将にそれぞれの大番を統括させる仕組みを取り入れた。
 この大番制は、江戸幕府の旗本制のルーツとなる。

 関白・羽柴秀吉は、徳川家康に大阪城を訪問するよう更に催促したが、臣従要求を拒み続ける徳川家康に対して、羽柴秀吉は1586年4月23日、実妹・朝日姫を正室として差し出し、5月14日に徳川家康は正室(継室)として朝日姫を迎えた。
 1586年9月9日、羽柴秀吉は朝廷より豊臣の姓を賜り豊臣秀吉となったが、それでも上洛しない徳川家康に今度は生母・大政所を朝日姫の見舞いとして10月18日に岡崎に送り、豊臣秀吉は姉と母を徳川家康に人質として出した事で、さすがに徳川家康も観念し、10月24日、浜松城から大阪城に上洛した。
 10月26日に大阪の豊臣秀長邸に宿泊すると、豊臣秀吉が秘かに徳川家康に会いにきて、改めて臣従を求めた。
 こうして徳川家康は豊臣秀吉に屈することとなり、10月27日、大坂城において豊臣秀吉に謁見。諸大名の前で豊臣氏に臣従することとなった。
 この謁見の際に徳川家康は、豊臣秀吉が着用していた陣羽織を所望し、今後、豊臣秀吉が陣羽織を着て合戦の指揮を執るようなことはさせない誓ったと言う。
 大阪城を後にした徳川家康は11月1日、京に赴くと11月5日に正三位に叙任され、11月11日には三河に帰還。
 11月12日には大政所を豊臣秀吉の大阪城に送り返すと、12月4日、17年間本城とした浜松城から、本拠を駿府城に移した。駿府町奉行には板倉勝重が就任している。
 この板倉勝重は、のちの関ヶ原の戦い後に京都町奉行となり、徳川家光の乳母を公募した人物で、春日局が抜擢された。
 12月25日、豊臣秀吉は太政大臣に就任して政権を確立(豊臣政権)

 1587年8月、徳川家康は再び上洛すると、豊臣秀吉の推挙により朝廷から8月8日に従二位・権大納言に叙任され「駿河大納言」と呼ばれた。この際、豊臣秀吉から羽柴の名字を下賜されている。
 1587年9月、関白・豊臣秀吉が、解決していない北条家の沼田領に関して調停し、北条氏政・北条氏直にも上洛するよう要求。
 また豊臣秀吉は12月3日に関東・奥両国惣無事令が出すと、徳川家康に関東の監視を行わせた。
 12月28日には、豊臣秀吉の推挙で、徳川家康は朝廷から左近衛大将および左馬寮御監に叙任された。

 朝日姫は1588年、母・大政所の病気の見舞いを理由に上洛し、そのまま京都の聚楽第に住んだが、これ以降は病気がちで、その後、1590年1月14日に死去した。

 1589年7月からは「五ヶ国総検地」と称せられる大規模な検地を行った。

豊臣秀吉の小田原攻め

 徳川家康は娘を嫁がせた北条氏直に、豊臣秀吉に臣従するようにと説得もしているが、北条家は軍備を増強するなどし、豊臣秀吉との戦に備えた。
 徳川家康は実質的な人質として、徳川秀忠を上洛させた。元服した際、豊臣秀吉の偏諱を受けて秀忠と名乗ったのだ。織田信雄の娘で豊臣秀吉の養女・小姫(春昌院)と祝言を挙げたが、のち豊臣秀吉と織田信雄が仲違いし、織田信雄が除封されると離縁している。

 1589年11月、北条家の沼田城主・猪俣範直が、真田家の名胡桃城を占領する事件が起こると、豊臣秀吉はこれを惣無事令に反するとして、小田原征伐を諸大名に発令。
 石田三成長束正家らが20万と言う豊臣大軍の兵糧・補給を担当した。
 3月19日に豊臣秀吉の軍勢が駿府城に入ると、3月20日、徳川家康は豊臣秀吉を接待し、30000の兵を出して出陣。
 1590年3月29日、徳川家康は豊臣秀次山中城攻めに加わり、4月1日には井伊直政が足柄城を攻略。
 (下記の写真は、徳川家康が攻めた山中城の担当攻め口)

 この井伊直政は徳川家康の養女で松平康親の娘である花を正室に迎えている勇猛果敢な武将で、武田の赤備えを採用。小田原城攻めでも、豊臣勢で唯一、小田原城に夜襲をかけて城内にまで攻め込んだ武将として、その名を天下に轟かせた。
 徳川家康は豊臣秀次・宇喜多秀家らと、箱根の宮城野・鷹巣城(鷹の巣城)から箱根口を小田原に進み、4月3日には小田原城の北、久野諏訪の原に着陣。翌日、酒匂川に近い今井村の土豪・柳川和泉守泰久の屋敷に入りこの今井に陣を築いた。
 4月9日、小田原城攻めの最中、豊臣秀吉から関東への移封を伝えられ、それを意識してか? 4月中旬には玉縄城を包囲。
 4月21日、徳川家康の家臣・松下三郎左衛門らが説得し玉縄城が開城。玉縄城主・北条氏勝は徳川家康に降伏した。
 4月22日には江戸城が、徳川家康の家臣・戸田忠次に明け渡された。
 5月27日、正式に関東移封を命じられ、150万石から250万石になる。
 6月24日、徳川家康の説得を受けた韮山城の北条氏規が、4カ月間の籠城を解いて降伏。以後、北条氏規は北条氏政・北条氏直に降伏を勧める役割を果たした。
 6月26日には石垣山城(一夜城)が完成。

 そして、豊臣秀吉は黒田官兵衛らを通じて、小田原城の北条氏政・北条氏直に降伏を勧告。
 7月に入ると、北条氏房・北条氏規が、徳川家康を窓口として和平交渉開始。そして7月5日、北条氏直は徳川勢の陣に向かい、己の切腹と引き換えに城兵を助けるよう申し出た。
 徳川家康は北条氏直を滝川雄利、そして織田信雄の元まで護送し、豊臣秀吉に北条氏直の降伏を伝えた。

 豊臣秀吉は、7月7日~9日にかけて片桐且元脇坂安治、榊原康政を検使として小田原城受け取りに当たらせた。
 7月9日、主戦派であった前当主の北条氏政と北条氏照は最後に小田原城を出て番所に移動。
 7月11日、榊原康政らの検視役が見守る中、北条氏規の介錯により北条氏政と北条氏照は自害した。北条氏規は兄弟の自刃後に追い腹を切ろうとしたが、果たせなかった。
 豊臣への内通の手引きをした松田憲秀と、早々に降伏して主家を裏切った大道寺政繁にも切腹が命じられたが、北条氏規は徳川家康と今川家人質の頃からの知り合いで、当主・北条氏直は徳川家康の娘・督姫が正室だったこともあり、 豊臣秀吉は命を助けて、紀伊国高野山に追放し、北条家は滅亡した。

 督姫はしばらく小田原で過ごしていたが、1591年8月19日に北条氏直が豊臣秀吉に許されて大阪で知行すると、督姫も8月27日に大阪に到着している。
 しかし、間もない11月14日に北条氏直が病死すると、徳川家康の元に戻った。

 小田原城を包囲中に、伊達政宗ら東北の大名も豊臣秀吉に恭順の意を示すと、豊臣秀吉は東北の領土仕置である「奥羽仕置」を実施し、豊臣秀吉は天下統一を果たし戦国の世を終わらせた。

徳川家康の関東移封

 徳川家康は、小田原城が開城した直後の1590年7月中旬には既に江戸に入っており、小田原城ではなく江戸城を居城にしようと、街づくりを開始。
 8月1日に、正式に「江戸御打ち入り」と発表された。

 約100万石の徳川直轄地は大久保長安(八王子8000石)・青山忠成(江戸町奉行5000石)・板倉勝重(新座・豊島1000石)・向井正綱(御船手奉行・三崎2000石)・成瀬正一(鉢形城)・日下部定好(鉢形城)・天野康景(江戸町奉行3000石)らの有能な家臣を代官などに抜擢して統治。
 ちなみに、四公六民という北条家の定めた低税率も、徳川吉宗の享保の改革で引き上げられるまで継承された。

 箕輪城12万石 井伊直政(のち高崎城を築城)、館林城10万石 榊原康政、厩橋城3.3万石 平岩親吉、白井城3.3万石 本多康重(1.3万石は父・本多広孝の分)、宮崎(小幡)3万石 奥平信昌、藤岡城3万石 松平康貞、大胡城2万石 牧野康成、吉井2万石 菅沼定利、総社1.2万石 諏訪頼水(諏訪頼忠説もある)、那波1万石 松平家乗、沼田城2.7万石 真田信幸(真田信之)、皆川1万石 皆川広照、結城城・土浦城10.1万石 結城秀康、矢作城4万石 鳥居元忠、臼井3万石 酒井家次関宿城2万石 松平康元、古河城3.3万石 本多康重、山崎1.2万石 岡部長盛(岡部康綱説もある)、蘆戸(阿知戸)1万石 木曾義昌、守谷1万石 菅沼定政、多古城1万石 保科正光、佐倉城1万石 三浦義次(久能宗能説もある)、 岩富1万石 北条氏勝、岩付城(岩槻城)2万石 高力清長、騎西城(寄西城)2万石 松平康重、河越城1万石 酒井重忠、小室1万石 伊奈忠次、松山城1万石 松平家広、忍城1万石 松平家忠、羽生城1万石 大久保忠隣(2万石とも)、深谷城1万石 松平康忠、東方1万石 戸田康長、本庄城1万石 小笠原信嶺、阿保1万石 菅沼定盈、八幡山1万石 松平清宗、大多喜城10万石 本多忠勝、久留里城3万石 大須賀忠政、佐貫城2万石 内藤家長、鳴戸(成東)2万石 石川康通、小田原城4.5万石 大久保忠世、玉縄城1万石 本多正信、韮山城1万石 内藤信成

 以上のように有力家臣を要所に配置した。

 1591年6月20日、豊臣秀吉は奥州での一揆鎮圧のため、豊臣秀次を総大将とした奥州再仕置軍を編成。蒲生氏郷・浅野長政・石田三成らの豊臣勢に徳川家康も加わり、葛西大崎一揆、和賀・稗貫一揆、仙北一揆、藤島一揆、九戸政実の乱などを鎮圧した。
 なお、この年、豊臣秀吉の後継者に指名していた鶴松が病死し、甥・豊臣秀次を家督相続の養子として関白職を譲り、豊臣秀吉は「太閤」と呼ばれるようになった。また、重用してきた茶人・千利休に、豊臣秀吉は自害を命じている。

 1592年からの朝鮮出兵で、豊臣秀吉は宇喜多秀家を元帥とし16万の軍勢を出したが、徳川家康は渡海することなく九州・名護屋城に在陣。

 1593年、徳川家康の4男である、忍城主・松平忠吉に利根川の治水工事を担当させ、家老の小笠原三郎左衛門吉次が工事を監督した。これにより、利根川は犬吠埼へ注がれるようになる。
 (写真は忍城)

 1593年、豊臣秀吉の側室・淀殿が、豊臣秀頼を産むと、豊臣秀次と豊臣秀吉は対立。2年後の1595年、豊臣秀吉は、豊臣秀次を廃嫡して高野山へ追放。のちに謀反の容疑で切腹を命じ、一族を抹殺した。
 豊臣秀次静粛後、豊臣秀吉は諸大名に上洛を明治、徳川家康も上洛して伏見城に入り、以後、江戸城よりも伏見に滞在する日の方が多くなった。
 1594年、北条氏直の死後、徳川家康の元にいた督姫は、豊臣秀吉の仲介で姫路城主・池田輝政と再婚。
 1595年9月17日、徳川秀忠が、豊臣秀吉の養女・江(浅井長政・お市の方の娘)と伏見で再婚。
 1596年5月8日、豊臣秀吉の推挙により内大臣に叙される。
 1597年4月11日、徳川秀忠とお江の間に、長女・千姫が伏見城内の徳川屋敷にて誕生。
 1597年、小早川秀秋を元帥として14万で朝鮮へ再度出兵した際にも、徳川家康は出兵を免れており、西国大名が疲弊した一方、徳川家康は兵力を温存できた。
 豊臣秀吉は病に倒れると、後継者である豊臣秀頼を補佐するための五大老・五奉行の制度を1598年7月に定め、五大老の一人に徳川家康を任命した。
 1598年8月に伏見城で豊臣秀吉が没すると五大老・五奉行は、朝鮮からの撤退を決めた。

石田三成と関ヶ原の戦いまでの経緯

 豊臣秀吉の死後、内大臣の徳川家康が朝廷の官位でトップになり、また豊臣秀吉から「秀頼が成人するまで政事を家康に託す」という遺言を受けていたため五大老筆頭と目され、徳川家康に接近する大名も増えだした。
 この頃より徳川家康は本多正信を参謀として献策に従い天下人への道を歩み出す。
 豊臣政権下で禁止されていた大名家同士の婚姻禁止の法度を破り、徳川家康は有力大名と姻戚関係となった。
 伊達政宗の長女・五郎八姫と、徳川家康の6男・松平忠輝。松平康元(徳川家康の甥)の娘と福島正之(福島正則の養子)。蜂須賀至鎮(蜂須賀家政の世子)と小笠原秀政の娘(徳川家康の外孫で養女)。水野忠重(徳川家康の叔父)の娘と加藤清正。保科正直の娘・栄姫(徳川家康の姪で養女)と黒田長政(黒田官兵衛の嫡男)らの婚姻がそうだ。
 こうして伊達政宗、福島正則、蜂須賀家政、加藤清正、黒田長政・黒田官兵衛らを徳川派とした他、細川忠興島津義弘増田長盛らも徳川家康に接近。

 このように、豊臣秀頼をないがしろにする行為に対して、大老・前田利家や五奉行の石田三成らは反感を覚え、1599年に1月、諸大名が徳川家康・前田利家の両屋敷に集結する騒ぎとなった。
 徳川邸に参集した大名は、福島正則、黒田孝高・黒田長政父子、池田輝政、蜂須賀家政、藤堂高虎、山内一豊、有馬則頼・有馬豊氏父子、京極高次京極高知兄弟、脇坂安治、伊達政宗、新庄直頼・新庄直忠兄弟、大谷吉継、森忠政、堀秀治、金森長近、最上義光、田中吉政など。
 前田邸に参集した大名は、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家、加藤清正、織田秀信、織田秀雄、石田三成、増田長盛、細川忠興、加藤嘉明、浅野長政・浅野幸長父子、長束正家、前田玄以、佐竹義宣、小西行長長宗我部盛親立花宗茂鍋島直茂有馬晴信松浦鎮信など。
 1599年1月19日、徳川家康に対して三中老の堀尾吉晴らが問罪使として出向いたが、徳川家康は堀尾吉晴らを恫喝して追い返す。その後、前田利家と徳川家康は2月2日には誓書を交わし、相互に訪問し和解。さらに徳川家康は向島へ退去すること一件落着となった。

 しかし、豊臣秀吉が亡くなってから7ヶ月後の1599年閏3月3日、前田利家は病死。
 前田利家死去の翌日、加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興、浅野幸長、池田輝政、加藤嘉明ら7将が、大坂屋敷の石田三成を殺害目的で襲撃。石田三成は佐竹義宣の協力で大坂を脱出して伏見城に逃れた。
 その後、徳川家康の仲裁により、石田三成は奉行を辞して、3月10日に佐和山城に蟄居し失脚。護送役としては徳川家康の次男・結城秀康があたった。

 9月7日、「増田長盛・長束正家 両奉行の要請」として徳川家康は大坂に入り、石田三成の大坂屋敷を宿所とした。
 9月9日には大阪城に登城して豊臣秀頼に対し、重陽の節句における祝意を述べると、9月12日には石田三成の兄・石田正澄の大坂屋敷に移った。
 しかし、9月28日には大坂城・西の丸に入り、大坂城で徳川家康は政務を執った。

 9月9日に登城した際、前田利長・浅野長政・大野治長・土方雄久の4名が徳川家康の暗殺を企んだと、増田長盛・長束正家 両奉行の報告を受けて、10月2日に浅野長政を甲斐・府中で隠居の上、蟄居させ、大野治長は下総の結城秀康のもとに追放、土方雄久は常陸・水戸の佐竹義宣のもとへ追放した。
 また、首謀的な加賀・前田利長に対して、徳川家康は討伐軍を出そうとした。これに前田利長も交戦を主張し防備を固めたが、亡き前田利家の正室・まつ(芳春院)が、自ら人質となって江戸城に下り、以後、江戸の徳川家康のもとで14年間過ごしている。
 これには逆らえず、徳川家康も前田攻めは中止。
 なお、徳川家康は豊臣秀頼の名を使い、諸大名に加増をするなど、より実力を示した。

 石田三成は上杉景勝の家臣・直江兼続と密謀を交わし、上杉景勝が先手を打って徳川家康に対して挙兵し、常陸の佐竹家もこれに応じて挙兵させ、大坂では豊臣秀頼を推戴して石田三成が挙兵して、徳川家康を東西から挟み撃ちにしようと模索したが、上杉景勝はこれには応じず、佐竹家の反応も曖昧であり、実現はしなかった。

 1600年3月、越後の堀秀治、出羽の最上義光らから、会津の上杉景勝に軍備を増強する不穏な動きがあるという知らせが届いた。
 上杉家臣で津川城主・藤田信吉が会津から出奔し、江戸の徳川秀忠の元へ「上杉氏に叛意あり」と訴えるという事件も起き、徳川家康は伊奈昭綱を使者として会津若松城主・上杉景勝に上洛を要請。しかし、上杉景勝は拒否した為、弁明の使者を送るよう上杉景勝に命じた。
 これに、上杉家重臣・直江兼続らは反発し、挑戦的な態度で徳川家康を痛烈に非難する文書を送った。(直江状)

 徳川家康は豊臣秀頼の命として上杉征伐に出陣することを決定し、1600年6月2日に東北・関東・北陸の諸大名に出陣を命じた。
 6月15日、徳川家康は豊臣秀頼より金2万両と兵糧2万石が下賜された格好で、翌16日に大坂城・京橋口から出陣し、夕刻には伏見城に入った。
 伏見城には鳥居元忠・松平家忠・松平近正らに守備させ、山科まで見送りに訪れた島津義弘にも伏見城守備を依頼して、徳川家康は江戸城へ向かったが、この後の行軍は実に遅く、6月23日に浜松、6月24日に島田、6月25日に駿府、6月26日に三島、6月27日に小田原、6月28日に藤沢、6月29日に鎌倉、7月1日に金沢八景、7月2日に江戸という、遅々たる進軍を行っている。

 7月11日、大谷吉継は徳川勢に加わろうとする道中、佐和山城で石田三成と面会した。この時、石田三成は「家康打倒」を打ち明け、大谷吉継を石田陣営に引き込んだ。
 7月12日、佐和山城で石田三成は大谷吉継、増田長盛、安国寺恵瓊と秘密会議を行い、毛利輝元への西軍総大将就任要請などを決定。
 同日、愛知川に東軍に参加予定の諸将を食い止める関所が設けられ、 長宗我部盛親、鍋島勝茂、前田茂勝らが足止めを食らい、結果的に西軍への参加を余儀なくされていめ。
 また島津義弘は、徳川家康との約束に従い伏見城に入城しようとしたが、鳥居元忠に断られて、止む無く西軍に身を投じた。

 7月17日、安国寺恵瓊の策を採用した毛利輝元は大坂城に入城し、徳川家康が割拠していた西の丸を接収。そして、西軍の総大将に就任した。
 この際、徳川家康側室の阿茶局、お勝の方、お万の方を佐野綱正ら連れ出して八幡に移すと知人に預け、佐野綱正は伏見城に入った。
 石田三成は増田長盛・長束正家を説得し、前田玄以を含めた三奉行の連署による挙兵宣言「内府ちがひの条々」を発し、主に中国・四国・九州の諸大名が追従して、西軍は約10万の兵力となった。

 挙兵した石田三成は、まず会津征伐に従軍している、諸大名の妻子を人質に取る作戦を開始したが、細川忠興の正室である細川ガラシャは細川邸に火を掛けて自害。加藤清正や黒田官兵衛の妻・光姫、黒田長政の妻・栄姫、加藤清正の正室は逃亡。東軍の諸将を怒らせる結果となり、人質作戦は中止している。

 7月19日には、伏見城の戦いとなり鳥居元忠・松平家忠・内藤家長・佐野綱正ら1800は、宇喜多秀家、小早川秀秋、毛利秀元吉川広家、小西行長、長宗我部盛親、長束正家、鍋島勝茂、島津義弘ら40000の大軍に攻められ、伏見城は 8月1日に陥落。鳥居元忠は、鈴木重朝と一騎打ちの末に討死した。松平家忠・内藤家長・佐野綱正も討死。

 この頃、徳川家康は江戸城に居たところ、7月19日に西軍首脳の一人である増田長盛より書状が届き、石田三成らが家康打倒の謀議を行っていると知った。
 その後も増田長盛からの書状が届いているが、それらの書状を送った時点で、増田長盛はまだ、石田三成に与していなかったのだ。
 また淀殿も石田三成らの動きを鎮圧するよう、徳川家康に書状を送っている。
 しかし、石田三成が挙兵した訳ではなかったので、徳川家康は7月21日には江戸城を出発し、7月24日に下野・小山に到着した。
 この小山で、石田三成が挙兵し伏見城を攻撃開始したことを、伏見城を守っていた鳥居元忠の使者によって知らされたのだ。

 石田三成は伏見城陥落後、細川幽斎が籠る丹後・田辺城を制圧するため、親密な関係にあった小野木重勝を総大将に15000の軍勢を丹後に差し向け、宇喜多秀家を総大将に毛利秀元や鍋島勝茂など30000の軍勢を、伊勢平定に送り込んだ。
 大谷吉継は北陸道平定に向かい、石田三成自身は美濃を抑えるため、8月10日に佐和山城から西軍の拠点となる大垣城に入った。
 その先の岐阜城主は織田秀信であったが、豊臣秀頼の後見と美濃・尾張加増を条件に西軍へ引き入れることに成功している。

上杉討伐を中止して関が原に転進

 1600年7月24日、徳川家康は下野・小山の陣において、家臣と協議した結果、石田三成を討伐する事に決め、翌25日に上杉征伐に従軍していた諸大名の大半を集め「秀頼公に害を成す君側の奸臣・三成を討つため」として、上方に反転すると告げた。(小山評定)
 最大の問題は、豊臣恩顧の大名が石田三成につくのか、徳川家康に味方するのかであったが、石田三成挙兵の知らせは、諸大名の耳にも既に入っており、皆、動揺して判断に苦慮していた。
 この時点で、毛利輝元が大坂城で豊臣秀頼を擁して西軍大将になった知らせは届いておらず、先に届いた淀殿からの要請や、奉行からの知らせの通り、大阪城の豊臣秀頼の要請と言う形で、石田三成を討つ為、戻ると言う状況となっていた。
 ただし、大阪で諸大名の妻子が人質になったと言う情報もあり、徳川家康は進退は各自の自由であると示した。
 事前に徳川家康の命を受けた黒田長政が福島正則を説得済であり、真っ先に、福島正則が大阪の事は考えず、徳川家康に味方すると表明。
 それに黒田長政、徳永寿昌が続くと、山内一豊は居城・掛川城を自由に使って欲しいと申しでて、東海道筋の諸大名もこれにならった。
 ちなみに、豊臣秀吉は徳川家康が謀反を起こした際の為に、東海道筋に豊臣恩顧の大名を配置しており、各城には非常用備蓄の兵糧も備えさせていたので、徳川家康は軍事展開がラクになった。
 このようにして、ほぼ全ての従軍諸将が徳川家康の東軍に従うことを誓った。

 ただし、沼田城主・真田信之は東軍に加わったが、信濃・上田城主である真田昌幸・真田幸村(真田信繁)は西軍に味方する判断をし、美濃・岩村城主である田丸直昌も西軍に組したとされるが、田丸直昌は元々、小山評定に参加していないとする説もある。
 真田信之の妻は本多忠勝の娘・小松姫であったこともあり、真田家は東西両方に味方する形で、天下分け目の戦いでも、お家存続を優先させた。

 翌日の7月26日からは、まず福島正則の清洲城を目指して東軍は転進。
 伊勢方面に所領を持つ富田信高、古田重勝、氏家行広、福島正頼、九鬼守隆らは居城防備のため各居城へ戻り、諸将が提供した東海道の城には松平康重、松平家乗、内藤信成、保科正光、北条氏勝ら徳川譜代の武将が城将として入城して守備を代理した。
 徳川秀忠は別働隊として、榊原康政、大久保忠隣、本多正信を添えた38000の軍勢にて、中山道から美濃への進軍を8月4日に開始。
 上杉景勝と佐竹義重の抑えとして、結城秀康を総大将に、里見義康、蒲生秀行、那須資景らを宇都宮城に進めさせて監視させた。
 江戸城に入った徳川家康は、石田三成が豊臣秀頼を守る形で毛利輝元らと挙兵したと言う事実が東軍にも伝わった事で、裏切りを警戒ししばらく江戸城に留まった。
 徳川家康は、藤堂高虎や黒田長政らを使って諸将に書状を送り続け、豊臣恩顧の武将の東軍繋ぎ止めと、西軍諸侯の調略を開始。

 石田三成の作戦としては、尾張・三河付近で東軍を迎え撃ち、東軍の背後からは上杉景勝・佐竹義重で挟み撃ちする計画を立て、早急に美濃・伊勢を占領する必要があった。
 しかし、東軍の先発隊が清洲城に集結するとの報を受けて、伊勢で展開していた宇喜多秀家ら西軍約30000は、石田三成の大垣城に向かってしまい、計画は破たんした。
 また、上杉景勝は徳川勢を追撃せず、最上義光の領地に侵攻。佐竹氏も一族・重臣の間で意見が分かれ、結果的に手薄の関東で徳川勢が戦う事はなかった。
 更に、黒田長政は、西軍についた吉川広家に毛利家所領の安堵を約束し、小早川秀秋には高台院(豊臣秀吉の正室・おね北政所)への忠節を説いて内応を約束させる事に成功。

 清洲城に入った福島正則らは、徳川家康からの指令も届かず「自分たちを捨石にするのか」と激怒し、池田輝政らと口論したと伝えられているが、徳川家康からの使者・村越直吉が来着して「なぜ早く美濃攻略に掛からないのか」と言うのを聞くと、福島正則ら東軍諸侯は、一気に美濃へとなだれ込んだと言う。
 8月22日に池田輝政らが河田より木曽川を渡り、米野村(笠松町)付近で西軍と激突し、河田木曽川渡河の戦い、米野の戦いとなった。
 加賀野井(現羽島市)から渡河した福島正則らも竹ヶ鼻城を陥落させ(竹ヶ鼻城の戦い)、その後、東軍はさらに進軍して、翌日8月23日、織田秀信が守る岐阜城を落とした(岐阜城の戦い)。
 織田秀信は、福島正則や池田輝政の助命嘆願もあって、弟の織田秀則と共に高野山へ追放され病没し、織田氏本宗家は断絶している。

 同じころ、美濃の東濃で東軍・妻木頼忠が、西軍についた田丸直昌の家臣らと交戦していた。
 そんな中、本能寺の変後に豊臣秀吉に服属する事を拒絶して領地を失い、徳川家康に保護されていた東濃の元領主、遠山友政小里光明などが、旧領復活を狙い、妻木頼忠と組んで西軍・田丸直昌や河尻秀長の領地に攻めこみ、苗木城、明智城などを陥落させ、西濃でも市橋長勝や徳永寿昌らが福束城や高須城など、西軍方の拠点を陥落させていた。
 さらに犬山城を守備していた関一政や加藤貞泰、竹中重門が井伊直政の誘いで東軍に寝返り、郡上八幡城稲葉貞通も降伏するなど緒戦は東軍優勢となった。

 岐阜城が落ちたとの報を受けると、江戸城の留守を武田信吉や浅野長政らに命じて、徳川家康は9月1日に33000を率いて西上開始。
 一方、中山道を進んでいた徳川秀忠38000は、上田城にて真田昌幸・真田幸村(真田信繁)の抵抗に合う。
 当初、真田信幸(真田信之)と本多忠政(小松姫の弟)が、開城交渉に当たったが、老練の真田昌幸は返事を先延ばしにして、時間稼ぎを行った。
 数日たつと、徳川勢に返事が届いたが「返答を延ばしていたのは篭城の準備の為でござった。充分に仕度は出来たので、一合戦つかまつろう」との返答だったと言う。
 怒った徳川秀忠は、本多正信や榊原康政などの素通りする意見を聞かず、たった3500で守る上田城への攻撃を開始したのだが、1585年の上田合戦(第1次上田城の戦い)と同じように、兵力で圧倒した徳川勢であったが、またしても上田城の真田氏に苦戦を強いられた。

 徳川秀忠は、真田幸村(真田信繁)が守る戸石城に、真田信之を差し向けたが、徳川勢の軍勢が兄・真田信之だと知ると、真田幸村は上田城に退却した。
 真田信之は戸石城を難なく占領し、中山道の徳川家中で最初の手柄を立てられただけでなく、真田勢のお互いの兵にも配慮した為と言われている。
 徳川秀忠は9月8日、上田城下の苅田をし、上田城から数百が飛び出してきたところを本多忠政が迎撃。すると、あっさく真田勢は退却開始したので、ここぞとばかりに徳川勢の牧野康成らが上田城の大手門に迫った。
 しかし、これは真田昌幸の作戦で、城内からと大手門を開いて鉄砲隊が一斉攻撃し、徳川勢の先鋒は大混乱に陥った。そこに、功を焦る後続がどんどん前進して来たため、徳川勢は進退窮まり、真田勢はそこを討って出て、徳川勢を蹴散らした。
 (写真は、上田城の大手門)

 更に、密かに徳川の陣の背後にまわっていた真田幸村ら200が、徳川秀忠本陣に鉄砲を打ち込み奇襲。
 本陣も大混乱に陥り、徳川秀忠は辛うじて家臣から馬を渡され、小諸城に逃げられた。
 また、神川の上流で堰き止めていた堤防を真田勢が切り、上田城を追われていた徳川勢に濁流が襲い掛かった。

 9月9日には徳川家康が江戸城を出たと知らせる書状も届き、徳川秀忠は、上田城に押さえの兵を残して、中山道を進んだが、道中の悪天候もあり、9月15日の関ヶ原本戦に間に合わなかった。この失態に徳川家康は激怒し、徳川秀忠にしばらくは対面することすら許さなかったと言われている。

 西軍に与した真田昌幸と真田幸村は戦後処理で死罪を命じられたが、真田信幸(真田信之)と本多忠勝の助命嘆願などもあり、一命を助けられてはじめ高野山へ蟄居。その後、真田幸村が妻(大谷吉継の娘)を同行させることを願ったため九度山に流罪となった。

関ヶ原の戦い 石田三成との決戦

 1600年9月、美濃に入った徳川家康は、中山道を進む徳川秀忠の到着を待ったが、9月14日赤坂の岡山に設営した本陣に入った。
 島清興(島左近)の進言もあり石田三成は、赤坂付近を流れる杭瀬川に兵を出して、東軍の中村忠一・有馬豊氏を誘い出し、宇喜多家の明石全登と連携して東軍を破った。
 (杭瀬川の戦い)
 一方、石田三成は、西軍が豊臣秀頼の正規軍であることを示すため、大阪城の豊臣秀頼に出陣を要請したが、淀殿が拒否したと言う。毛利輝元も増田長盛が内通している可能性が有り、大阪城を動けなかったとされる。
 また、京極高次が突如、西軍の北国戦線を離脱して、居城の大津城に3000で籠城。京極高次の正室は初(淀殿の妹)であった。
 京極高次の裏狩りに、石田三成は毛利元康を大将にして小早川秀包や立花宗茂ら15000の軍勢を割き、大津城攻撃へと向かわせた(大津城の戦い)。
 9月14日には西軍首脳であったはずの前田玄以が大坂城を退去して閑居。
 大津城の京極勢は奮戦したが力尽き、9月15日に降伏して大津城を開城。京極高次は一命を助けられ、出家し高野山に行った。

 この大津城が降伏した9月15日、関ヶ原では石田三成と徳川家康の決戦が行われた。

 東軍よりも先に関が原に布陣した西軍は、高所を抑えて有利な布陣を敷き、9月15日、早朝から深い霧の中、2時間ほど対峙した。
 そこに、井伊直政と松平忠吉の小隊が、先陣を任されていた福島正則家臣・可児吉長の横を通り抜けようて前方へ進出し、井伊直政隊が宇喜多秀家に向けて鉄砲を打ち込んだ。
 抜け駆けされたと福島正則隊は宇喜多秀家に向けて突撃開始し、関ヶ原の戦いの火蓋が切られた
 (お断り : 関ヶ原の戦いの詳細内容は省かさせて頂きます。)
 結果的に黒田長政が調略していた松尾山の小早川秀秋15000が石田三成を裏切り、大谷吉継の右翼を突いた。
 その後、傍観していた脇坂安治、小川祐忠赤座直保朽木元綱ら計4200も石田三成を裏切り、大谷吉継の側面を突き、戸田勝成平塚為広が戦死し、敗北を悟った大谷吉継も自刃。(享年42)
 その後、旗本中心の徳川家康本隊30000もようやく動き出し、宇喜多秀家や小西行長が敗走。
 石田勢も島右近などの重臣は討死して壊滅。石田三成も伊吹山方面に逃走した。
 島津義弘隊1500は、福島正則を正面突破して戦線離脱に成功し撤退した。

 九州では東軍として挙兵した黒田官兵衛と加藤清正が自力で九州各地を占領していたが徳川家康からの停戦命令を受けて兵を引き上げている。

 大勝利した徳川家康は、首実検のあと、山中村の大谷吉継陣跡にて休養。
 9月16日には、裏切者の小早川秀秋、脇坂安治、小川祐忠、赤座直保、朽木元綱らに石田三成の本城・佐和山城の攻撃を命じ、田中吉政と井伊直政が加わり20000で攻撃させた。
 佐和山城は、石田三成の兄・石田正澄を主将に父・石田正継や石田三成の嫡男・石田重家、大坂からの増援である長谷川守知ら2800が守備していたが、9月18日に落城。
 大垣城も9月23日に開城し、福原長堯らは切腹。
 伊勢方面では、志摩鳥羽城を巡り嫡男・九鬼守隆と合戦した九鬼嘉隆も伊勢の答志島に逃走し自刃。

 9月20日に、徳川家康は京極高次の居城だった大津城に入ると、中山道を急いだ徳川秀忠も合流。榊原康政の必死の説得で、9月23日になって徳川家康は徳川秀忠と対面した。
 9月21日、石田三成は田中吉政の兵に捕縛されて、9月22日に大津城に護送され、東軍諸将と再会。
 福島正則は石田三成に罵声を浴びせたが、黒田長政や浅野幸長は敗戦した石田三成に、労りの声を掛けている。石田三成は裏切った小早川秀秋を見ると激しく叱ったと言う。
 大阪城で戦局を見ていた西軍・毛利輝元は福島正則と黒田長政や本多忠勝と井伊直政の開城要求に応じて9月24日に大阪城・西ノ丸から退去。
 小西行長と安国寺恵瓊も捕縛され、石田三成と共に、9月26日、徳川家康が淀城に向かう際、大阪に移送された。
 水口城に長束正家が戻っていることを知った徳川家康は池田輝政・池田長吉兄弟と稲葉貞通に水口城攻撃を命じ、9月30日に開城させている。
 また、徳川家康は、細川忠興に福知山城攻撃を命じた。福知山城は、田辺城・細川幽斎を攻撃した西軍の小野木重勝が籠っており、亀山城で細川忠興は父・細川幽斎と合流して、井伊直政と山岡景友の説得もあり、小野木重勝は降伏している。

 9月27日に大阪城に入った徳川家康は、豊臣秀頼と淀殿と会見したあと、西ノ丸に入り、井伊直政・本多忠勝・榊原康政・本多正信・大久保忠隣・徳永寿昌の6名に命じて、味方した諸大名の論功行賞調査を開始。

 9月30日、出羽合戦を繰り広げていた上杉景勝の下に、ようやく西軍・石田三成敗戦の報が伝えられ、長谷堂城にいた直江兼続は会津に撤退した。

 大坂・堺を引き回された石田三成、小西行長、安国寺恵瓊らは10月1日、京都六条河原で斬首。首は三条大橋に晒された。石田三成 享年41。
 自刃した長束正家と長束直吉の首も、10月3日、三条大橋に晒された。
 宇喜多秀家は逃亡に成功し、島津義弘などを頼って薩摩で潜伏したが、薩摩が本領安堵となると徳川家康に引き渡された。前田利長らの嘆願で助命されると1606年に八丈島に流罪となっている。

 論功行賞では、宇都宮城に拠って上杉景勝・佐竹義宣を牽制した結城秀康が67万石となり、豊臣恩顧の諸大名は、軒並み高禄での加増となったが、いずれも西国を中心に遠国へ転封。
 京都・大坂および東海道は、徳川家康の子供や一族、徳川譜代大名で占められ、江戸幕府の基盤となった。
 また、豊臣家の蔵入地が廃止され、豊臣直轄領は開戦前の222万石から摂津・河内・和泉65万石余りに事実上減封となった。
 一方、徳川家康自身の領地は開戦前の255万石から400万石へと大幅に増加し、京都・堺・長崎を始めとする大都市や佐渡金山・石見銀山・生野銀山といった豊臣家の財政基盤を支える都市・鉱山も徳川領となった。
 こうして、豊臣恩顧の大名が、徳川家康により論功行賞された事で、豊臣家の直臣ではなく、独立した大名家となり、徳川家と豊臣家の勢力が逆転した。

征夷大将軍就任と江戸幕府

 1600年12月19日、徳川家康が奏上して、九条兼孝が関白に就任。豊臣氏が関白を世襲するのを妨害した。

 1601年3月23日、徳川家康は大坂城・西の丸を出て、伏見城に移って政務を執った。
 征夷大将軍として徳川幕府を開くため、徳川氏の系図の改姓を行い源氏となった。

 1602年、関ヶ原の戦いの戦後処理で唯一処分が決まってなかった常陸・佐竹義宣を出羽・久保田に減転封し、代わりに徳川家康の5男・武田信吉を水戸藩に入れ、これにより関東一円は完全に徳川家が支配した。

 1603年2月12日、後陽成天皇は徳川家康を右大臣と征夷大将軍に任命。3月12日には徳川家康が伏見城から二条城に移り、御所を参内。徳川家康は武家の棟梁となる地位を確立し、将軍職世襲をさせるため、跡継ぎである徳川秀忠を右近衛大将(次期将軍候補)にするよう朝廷に奏上。
 また、諸大名を動員して江戸城の普請を行わせ、徳川独自の政権構築を始めた。
 1603年、徳川秀忠の娘・千姫(7歳)を、大阪城の豊臣秀頼(10歳)の正室にし、千姫は乳母の刑部卿局とともに大坂城に入った。
 1603年4月16日に徳川秀忠は右近衛大将となった。

 1605年1月、徳川家康は江戸城を発ち、伏見城に入ると、2月、徳川秀忠も東国の諸侯ら16万の上洛軍を率いて出発し、3月12日、徳川秀忠も伏見城に入った。
 4月7日、徳川家康は将軍職辞任と、後任として徳川秀忠の推挙を朝廷に奏上し、4月16日、徳川家康は将軍職を辞して、朝廷に徳川秀忠への将軍宣下を行わせ、将軍職は以後「徳川氏が世襲していく」ことを天下に示した。
 また、徳川秀忠の正室・初(高台院)を通じて、豊臣秀頼に対して、新将軍・徳川秀忠と対面するよう淀殿(茶々)に要請したが、淀殿は拒絶。
 徳川家康は、6男・松平忠輝(川中島12万石)を大坂城に派遣して、豊臣秀頼と対面させることで、妥協している。この松平忠輝は翌16006年に伊達政宗の長女・五郎八姫を正室に迎えている。

 1607年、徳川家康は江戸城を徳川秀忠に任せて、駿府城に移ったが「駿府の大御所」として、江戸幕府の実権は引き続き掌握して、幕府の制度作りに勤めた(大御所政治)。
 徳川秀忠は徳川家直轄領および譜代大名を統治し、徳川家康は外様大名との接渉を担当。
 なお、この年、結城秀康(越前北庄67万石)が死去。享年34。

 その後も、なんとか大阪城の豊臣秀頼を、将軍・徳川秀忠と会見させて、徳川秀忠に豊臣家が屈したと言う状況を作りたかった徳川家康は、1611年3月、二条城にて徳川秀忠と豊臣秀頼の会見を行いたいと淀殿に要請した。将軍・徳川秀忠の正室は、淀殿(茶々)の妹であるお江である関係だけでなく、豊臣秀頼の正室は千姫(徳川秀忠の娘)であった事や、加藤清正や浅野幸長ら豊臣家恩顧の大名らの説得もあり「養父への挨拶」と言う名目で片桐且元が随行し豊臣秀頼は上洛。ついに、豊臣秀頼は二条城にて徳川家康・徳川秀忠と会見し、豊臣氏が徳川に臣従したように見せた。

 しかし、徳川家康にとって、大阪城の豊臣秀頼は最大の脅威であり、老齢となった徳川家康は徳川家の行く末を案じ始めた。
 また、将軍・徳川秀忠と、弟・松平忠輝(高田城75万石)の仲が悪く、松平忠輝の義父でもある伊達政宗が、松平忠輝を擁立して反旗を翻す可能性も懸念された。

大坂冬の陣・真田丸

 1612年には浅野長政・堀尾吉晴・加藤清正が死去し、1613年には池田輝政・浅野幸長が死去。更に1614年に前田利長が亡くなり、豊臣恩顧の大名が失われていくと、豊臣家の孤立はいっそう強まり、その焦りからか徳川幕府に無断で朝廷から官位を賜ったり、大阪城に兵糧を集め、浪人を雇い出すなど、淀殿は徳川幕府との対決姿勢を出し始めた。
 大坂城には豊臣秀吉が遺した金銀が、まだ大量にあったのだ。事実、後年、大阪城が落城した際、約52万両もの金銀を徳川幕府が没収している。
 これに対し、徳川家康も大砲の増産するなど、大阪城攻撃の準備を開始した。

 そんな中、1614年、方広寺の鐘に記された「国家安康」「君臣豊楽」のに問題があると、京都所司代・板倉勝重と本多正純らが共に強硬策を徳川家康に進言。
 この方広寺鐘銘事件を口実にして、7月26日、徳川家康は片桐且元に問題があると供養の差し止めを要求した。
 片桐且元は徳川家康に弁明を試みるも、徳川家康は会見すら拒否。あとから駿府に入った大蔵卿局と、徳川家康がすんなり会見したのを受けて、片桐且元は大阪に戻った。
 片桐且元は豊臣秀頼が大阪城を退去するなどの妥協案を淀殿に提示したが、淀殿は拒否。逆に、片桐且元が徳川家康と内通していると大野治房らは疑い、淀殿は片桐且元を追放した。
 1614年10月2日、大阪城では兵糧の大量買い付けを開始し、豊臣旧恩の大名に大阪城に馳せ参じるように書状を送り、全国の牢人を召し抱え、武器弾薬も購入し、大阪城の修理も開始した。片桐且元はやむ無く、板倉勝重を頼って、徳川家康に人質を出して臣従し、10月10日には、大阪に米を送らないように土佐国に対して命じている。
 同じ10月10日、徳川家康は軍勢を率いて、駿府城を出発。徳川家康が10月22日に二条城に入ると、片桐且元も軍議に参加している。
 10月23日には徳川秀忠が60000ほを率いて江戸城を出発。ただし福島正則や黒田長政らは江戸城に留め置いた。
 10月25日、徳川家康は藤堂高虎・片桐且元を呼び、先鋒を命じた。

 豊臣秀頼の大阪城に集結した浪人は約10万になり、真田幸村(真田信繁)、長宗我部盛親、後藤基次(後藤又兵衛)、毛利勝永、明石全登ら五人衆のほかにも、塙直之大谷吉治などが大阪城に入った。
 真田幸村らは、大阪城から討って出て、徳川勢を野戦で迎え撃つ策を主張したが、大野治長ら豊臣家臣は防備に優れた大阪城に籠城して、有利な講和を結ぶ策を主張し結果的に籠城策が取れらた。
 しかし、真田幸村は、大阪城の弱点を補うべく出城の増設許可を得て、大阪城の南側に「真田丸」を築いた。

 急ぎ国元から軍勢を率いた諸大名も、続々と大阪に布陣し、徳川家康も11月15日に二条城を出発し、迂回して奈良を経由してから大阪城の南にある茶臼山陣城に11月18日に入り、先に到着していた徳川秀忠と軍議を行った。

 1614年11月19日、木津川口の砦において最初の戦闘が開始(木津川口の戦い)。この後11月26日には鴫野・今福で(鴫野・今福の戦い)、11月29日には博労淵、野田・福島において激しい戦闘が行われた(博労淵の戦い、野田・福島の戦い)。優勢な徳川勢は、豊臣勢の数ヶ所の砦を陥落させたると11月30日に豊臣勢は残りの砦を破棄して大坂城に撤収。
 徳川勢は約20万にて、大阪城を完全に包囲した。(大坂冬の陣)
 徳川勢は鉄砲避けの竹束・塹壕・鉄板などを用いて、徐々に大阪城に接近。
 真田丸正面には前田利常率いる12000の他、南部利直、松倉重政、榊原康勝など数千が接近。
 八丁目口・谷町口には、井伊直孝4000、松平忠直10000、他数千が布陣。
 対する豊臣勢の真田丸には真田幸村指揮5000、八丁目口・谷町口には木村重成、後藤基次、長宗我部盛親など12000以上が配置されていた。

 12月2日、真田幸村は、篠山から前田利常らの塹壕堀りを、鉄砲で狙撃して作業を妨害。
 これに業を煮やした前田利常は、本多政重、山崎長徳らに夜陰に乗じて篠山の真田勢を攻撃させたが、真田勢は既に真田丸に撤収しており、肩透かしを食った前田勢は、真田丸から笑われた。その挑発に乗ってしまい、前田勢は真田丸を12月4日に攻撃。真田幸村は、前田勢が真田丸の城壁に辿り着くまで引きつけてから鉄砲で攻撃開始。前田勢は大損害を出した。
 これにつられて、井伊・松平勢も八丁目口・谷町口にて攻撃開始。
 この時、大阪城では誤って火薬庫が爆発。
 去る12月3日、大坂城内では南条元忠が幕府軍に内通していることが発覚し、城内で切腹させたが、豊臣軍は南条元忠が引き続き内応しているように見せかけ、幕府軍を欺いていたので、徳川軍は大きな爆発音に、大阪城内で南条元忠が豊臣に抵抗を開始したと勘違いし、激しく大阪城を攻めた為、徳川軍は敗れた。
 なお、徳川家康は退却を命じたが、徳川勢は竹束や鉄楯を持たずに攻めてしまっていたため、敵の鉄砲攻撃に身動きがとれず退却は難航し、戦死者は増えた。(真田丸・城南の攻防戦)

 この後、徳川家康は各諸侯を呼び寄せ、軽率な行動を叱責。竹束・鉄楯を必ず使用するよう厳命した。
 この背景には、戦国の世も終わり関ヶ原の戦い以降、約15年間、戦はほとんどなく、徳川勢の兵も、戦闘経験が無い者が多く、指揮官も兵も戦闘初心者が多いという事情もあった。

 徳川家康は伊奈忠政・福島忠勝・毛利秀就・角倉素庵に命じて淀川の流れを変えて、川の流れを低くし渡河しやすくしたり、毎夜三度、午後8時、午前0時、午前4時に一斉に勝ち鬨をあげさせ、さらに午後10時、午前2時、午前6時に大砲(石火矢・大筒・和製大砲)を打って、大阪城の不眠を誘って精神的に追い込んだり、甲斐や佐渡の鉱夫を動員して南方より土塁・石垣を破壊するための坑道掘削を始めたり、堀の埋め立てを開始したり、12月16日からは更に大砲100門以上による砲撃を開始したり、あらゆる手段を講じて大阪城を攻撃した。
 その一方で、12月3日からは織田有楽斎を通じて豊臣秀頼との和平交渉も進めており、落城の恐怖に怯えた淀殿は和睦を望み、最終的に12月18日より徳川勢・京極忠高の陣において、本多正純、阿茶局と、豊臣勢の使者として派遣された淀殿の妹である常高院(初)との間で協議が行われ、大阪城は本丸を残して二の丸・三の丸を破壊し外堀を埋める事、淀殿を人質としない替わりに大野治長・織田有楽斎より人質を出す事、豊臣秀頼の身の安全と本領の安堵、大阪城中諸士(浪人)については不問との条件で和睦した。

 古来より堀の埋め立ては、埋め立てと言っても堀の一部たけを埋めたり、城の破却と言っても土塁の角を崩す程度の儀礼的な事であったが、徳川家は松平忠明、本多忠政、本多康紀を普請奉行とし徹底的に外堀を埋めて、三の丸を破壊した。包囲していた軍勢だけでなく、地元住民なども動員して突貫工事を行った。
 また、城の破却と堀の埋め立ては二の丸が豊臣家、三の丸と外堀は徳川家と決められていたが、1615年1月に入ると、二の丸の破却と堀の埋め立ても徳川家が開始。
 豊臣家は二の丸は豊臣の担当だと抗議したが、徳川方は「工事が進んでいないようなので手伝う」として周辺の家・屋敷を破壊してまで、急いで埋め立てを進め。真田丸も破壊された。
 逆に徳川勢も豊臣に不信感を抱いていた。浪人については不問と言うのは、徳川側にしてみれば助命・退去と言う意味だったが、豊臣側はそのまま召し抱えて良いとの解釈だったのだ。
 徳川家康は、駿府への帰路の途中、何度も埋め立て工事の進捗具合を聞いている。
 「大阪城は堅固な城だが、この堀を埋められたら裸同然だ」と、まだ豊臣秀吉が健在だった時、徳川家康は、大阪城の弱点を豊臣秀吉から聞いていたのだ。
こうして、埋め立て工事は1615年1月23日に完了し、諸将は帰国した。

豊臣滅亡と真田幸村

 徳川家康は駿府城、徳川秀忠も江戸城に戻ったが、国友鍛冶に更に大砲製造させて次の戦争準備を開始。
 1615年3月15日、大阪城の浪人の乱暴・狼藉、大阪城の堀や塀の復旧、京や伏見への放火など不穏な動きがあると京都所司代・板倉勝重が、駿府城の徳川家康に報告すると、大阪城に対して牢人の解雇か、豊臣家の移封を要求した。

 そして、4月1日、畿内の諸大名に大阪城から出た浪人を捕縛するよう命じて、小笠原秀政を伏見城の守備に向かわせた。
 4月4日、徳川家康は、徳川義直(名古屋藩主53万石)の婚儀のためとして駿府を出発して名古屋に向かった。
 翌4月5日に大野治長の使者が到着し、豊臣家の移封は遠慮したいとと申し出た。
 すると、常高院(お初)を通じて「其の儀に於いては是非なき仕合せ」(そういうことなら、どうしようもない)と大阪城に返答させ、諸大名に鳥羽・伏見に集結するよう出陣を命じた。

 4月9日、大阪城内にて徳川との交渉役だった大野治長は、主戦派から恨みを買って襲撃された。
 開戦は避けられないと悟った豊臣側は4月12日、浪人衆に金銀を配布して武具の用意をさせた。
 大阪城では和議により一部浪人の解雇や、織田有楽斎が豊臣家に見切りを付けて大坂城を退去するなどして、逃亡した浪人も多く、兵力は78000まで減少していたが、一部の堀を掘り返したりした。

 4月10日には、江戸城から徳川秀忠が出陣し、また、徳川家康は名古屋城に入った。4月12日、名古屋城にて徳川義直の婚儀が行われると徳川家康は二条城に向かい、4月18日に二条城に到着した。
 このころ徳川秀忠は藤堂高虎に対し、自分が大坂に到着するまで開戦を待つよう、藤堂高虎からも徳川家康に伝えてくれと依頼している。
 4月21日、徳川秀忠も二条城に到着し、翌22日、徳川家康・徳川秀忠は本多正信・本多正純、土井利勝、藤堂高虎らと軍議を開いた。
 この時の徳川勢の戦力は約15万5000で、5月5日、徳川家康は二条城を出発した。その際、自軍に対し「三日分の腰兵糧でよい」と言ったと言う。

 大坂冬の陣での豊臣勢は、大阪城籠城ではもはや勝てる見込みは無いとして、野戦することに決し、4月26日、筒井定慶の守る大和郡山城を大野治房が攻略した。(郡山城の戦い)
 そして、4月28日には堺を焼き払い、大野治房勢は、4月29日には一揆勢と供に紀州攻めを試みるが、先鋒の塙直之、淡輪重政らが単独で浅野長晟勢と戦い討死(樫井の戦い)。
 その後、大野治長らは浅野長晟勢と対峙しつつ、5月6日まで堺攻防戦を行った。

 5月6日、大和路から大坂城に向かう徳川幕府軍35000を豊臣勢が迎撃。道明寺・誉田合戦となった。
 豊臣勢は寄せ集めの兵であった為、指揮系統も明確でなく緊密な連絡を取ることができず、後藤又兵衛2800は単独で小松山に進出してしまい、伊達政宗、水野勝成、松平忠明ら20000の敵勢に集中攻撃を受け、後藤又兵衛は鉄砲に討たれ討死した。
 後藤又兵衛が討死した頃に到着した薄田兼相、明石全登、山川賢信ら3600も小松山を越えた徳川勢と交戦し、薄田兼相らが討死した。

 さらに遅れて真田幸村(真田信繁)、毛利勝永ら12000の兵が到着し、真田隊が伊達政宗隊の先鋒・片倉重長勢の進軍を押し止めた。
 しかし大阪城から八尾・若江での敗戦の報を受け、豊臣勢は真田幸村を殿にして後退。
 水野勝成は追撃を主張したが徳川方の諸侯は連続した戦闘に疲弊していた為、追撃はしなかった。

 同じ日に起こった八尾・若江合戦では、豊臣勢の木村重成6000、長宗我部盛親・増田盛次ら5300が、河内路から大坂城に向かう徳川本隊12万を迎撃した。
 まず長宗我部隊が霧の中、藤堂高虎隊5000を奇襲攻撃し、藤堂高刑、桑名吉成、藤堂氏勝らが戦死するなど多数の首を獲り、長宗我部隊は長瀬川堤で陣を整え休息した。
 一方、木村重成隊は兵の集結が遅れて出発が遅くなった上、途中、道に迷うなど、兵の練度に問題があったが、木村重成もまだ24歳と戦闘経験が乏しい指揮官であり、進軍が大幅に遅れたが奮闘し、藤堂良勝、藤堂良重らを討ち取り、藤堂勢は兵の半数を失った。その後、井伊直孝隊3200が木村重成隊を攻撃し、木村勢の山口弘定、内藤長秋が戦死。木村重成隊は壊滅。
 木村重成は1615年1月7日、大蔵卿局の姪・青柳を妻に迎えていたが、新婚5ヶ月で命を落とした。木村重成 享年23。青柳は妊娠しており、その後出産したが、木村重成の一周忌を終えると20歳で自害したという。
 長宗我部盛親は木村重成隊壊滅の報を聞くと、敵中での孤立を懸念し大坂城へ撤退。豊臣勢はいよいよ大坂城付近に追い詰められた。
 なお、松平忠直は、勝手な戦闘は慎めという命令を素直に守り戦闘を傍観。藤堂高虎・井伊直孝勢の損害が大きくなったとして、徳川家康に叱責されている。

 翌日の5月7日には大坂の陣における最後の戦い「天王寺・岡山の戦い」となった。
 天王寺口は茶臼山に真田幸村、子の真田幸昌、真田信倍3500、茶臼山前方に真田信繁与力の渡辺糺、大谷吉治、伊木遠雄ら2000、茶臼山西に福島正守、福島正鎮、石川康勝、篠原忠照、浅井長房ら2500、茶臼山東に江原高次、槇島重利、細川興秋(兵数不明)、四天王寺南門前には毛利勝永勢など6500が布陣した。
 岡山口は大野治房を主将に新宮行朝、岡部則綱らが、後詰に御宿政友、山川賢信、北川宣勝ら計4600が布陣した。
 茶臼山から北西に離れた木津川堤防沿いに別働隊として明石全登勢300、全軍の後詰として四天王寺北東の後方に大野治長、七手組の部隊(15000?)が布陣し、徳川勢を迎え撃つ体制を取った。

 幕府側は前日の戦闘で損害が出た大和路勢35000と浅野長晟勢5000を茶臼山方面に配置。そして、松平忠直勢15000が抜け駆けをして、大和路勢前方に躍り出て、茶臼山の真田幸村勢と対峙した。
 天王寺口先鋒は本多忠朝を大将とした秋田実季、浅野長重、松下重綱、真田信吉、六郷政乗、植村泰勝ら5500。二番手に榊原康勝を大将とし、小笠原秀政、仙石忠政、諏訪忠恒、保科正光ら5400。三番手に酒井家次を大将とし、松平康長、松平忠良、松平成重、松平信吉、内藤忠興、牧野忠成、水谷勝隆、稲垣重綱ら5300、その後方に徳川家康の本陣には15000を配置した。
 岡山口は先鋒前田利常、本多康俊、本多康紀、片桐且元ら20000。二番手は井伊直孝、藤堂高虎勢7500および細川忠興(兵数不明)。
 その後方に近臣を従えた徳川秀忠の本陣23000。一説には一番手と二番手の間に黒田長政、加藤嘉明(兵数不明)が参陣していたといわれるが詳細不明。
 また、後の御三家の内、徳川義直15000)、徳川頼宣が本陣跡備として参陣。

 豊臣勢は総勢50000、徳川勢は総勢150000であり、真田幸村らは豊臣秀頼にも出陣してもらい、豊臣勢の士気を高めようとしたが、淀殿が断固拒否。豊臣秀頼は大阪城にて戦局を眺めた。

 天王寺口の戦いでは、毛利勝永6500が徳川勢先鋒の本多忠朝を討取り、真田幸村は抜け駆けして来た松平忠直と激戦となったが「紀州(浅野長晟)が裏切った」という虚報を流すと、松平忠直勢は動揺し、真田幸村は突破。毛利勝永も浅野長重・秋田実季・榊原康勝・安藤直次・六郷政乗・仙石忠政・諏訪忠恒・松下重綱・酒井家次・本多忠純を突破し徳川家康本陣に、真田幸村と迫った。真田幸村は3度、徳川家康本陣に猛攻撃を加えたと言い、徳川家康の馬印は倒れ、徳川家康は馬で逃亡。何度も、切腹すると口走ったと言う。
 疲労した真田幸村は安居天神で休息をとっていたところを松平忠直隊の西尾宗次に襲撃され討死し、大谷吉治も戦死。毛利勝永も真田勢が壊滅したあと、集中攻撃を受けたため大阪城に撤退した。
 別働隊の明石全登は突撃の命令を待つうちに、天王寺口が敗れたのを知ると、松平忠直勢らに突撃して、その後姿を消した。
 徳川家康は真田幸村を恐れて、松平忠直隊が討ち取ったと聞いても、信じなかったと伝わる。

 岡山口の戦いでは、大野治房勢が前田利常らと交戦開始。天王寺口の徳川先鋒が崩れた為、二番手の井伊直孝、藤堂高虎勢が支援に向かうのを見て、大野治房勢は前田利常勢を突破し、徳川秀忠本陣に迫った。
 徳川家康本陣同様に大混乱となったが、黒田長政・加藤嘉明勢が徳川秀忠の周囲を固め、旗奉行の三枝昌吉が旗を立て敵に向かって進んで行くのを見た徳川勢は、その旗に皆集結し、参謀・立花宗茂は反撃に転じ、井伊直孝が中心になって大野治房勢を押し返した。
 あとが無い豊臣勢は死に物狂いで奮戦したが約15000の死者を出し、疲労を極め、約3時間で壊滅。唯一戦線を維持していた毛利勝永が殿を務めて井伊直孝や細川忠興らの追撃を防ぐと、豊臣勢は大阪城に総退却した。

 真田隊を壊滅させた松平忠直が大阪城に一番乗りすると、続々と徳川勢がなだれ込み、夕方の午後16時には内通者が放火して、大阪城の天守閣が炎上。
 長宗我部盛親は大阪城の京橋口の守備していたが、再起を図って逃亡。
 1615年5月7日の深夜に大阪城は陥落し、大野治長は自害。
 豊臣秀頼の正室・千姫は、徳川家康の命により救出され、豊臣秀頼や淀殿の助命嘆願をしたが許されず、豊臣秀頼と淀殿は、山里曲輪にあった籾蔵の中で毛利勝永に介錯され自害して果てた。毛利勝永も子である毛利勝家や、真田幸村の子・真田幸昌(真田大助)とともに蘆田矢倉で自害。
 大野治長 享年47。毛利勝永 享年38、淀殿 享年50。豊臣秀頼 享年23。真田幸昌(真田大助) 享年13。

 徳川勢の一部の兵は、大阪の民衆を手籠めにしたり、奴隷として連れ帰ったりした為、徳川幕府はのちに、関わった侍は斬首して、民衆を解放する様命じている。

 豊臣秀頼の子・国松(7歳)は、田中六郎左衛門(京極家侍、傅役、乳母の夫)と乳母に連れられ、大阪城を落ちたが、潜伏している所を捕らえられ、京都所司代・板倉勝重のもとに連行されると、5月23日、市中車引き回しの後、六条河原で田中六郎左衛門と共に斬首された。
 田中六郎左衛門は京極家の者だった為、死罪を免れたが自ら志願して同時に処刑されたという。
 長宗我部盛親も、5月15日に六条河原で6人の子女とともに斬首され、三条河原に晒されている。

 大坂城には松平忠明が移り、大阪の復興にあたった。その後、大坂は将軍家直轄となり「天下の台所」と呼ばれる商業の街に発展した。

 1615年6月28日、後陽成天皇の第八皇子である八宮良純親王を徳川家康は迎えて猶子とし直輔親王と名乗らせ、より天皇家との関わりを強化。
 1615年9月9日には、禁中並公家諸法度を発布して、朝幕関係を規定。また、諸大名統制のために武家諸法度・一国一城令が制定された。

 こうして、徳川家による日本全域の支配を実現し天下の礎を築いた。
 1616年1月、徳川家康は鷹狩に出た先で倒れる。藤枝田中城では食中毒になった。
 3月21日、朝廷から太政大臣に任ぜられた。武家出身者としては、平清盛、源義満(足利義満)、豊臣秀吉に次いで史上4人目である。
 4月17日巳の刻(午前10時頃)に、徳川家康は駿府城において病死。享年75。
 久能山に葬られ、東照大権現の神号を贈られた。

 「見る間に痩せていき、吐血と黒い便、腹にできた大きなシコリは、手で触って確認できるくらいだった」とする文書も見受けられることから、最近の研究では胃がんであったとされる。

 徳川家康が死去した後は、将軍・徳川秀忠は親政を開始し、酒井忠世・土井利勝らを老中として幕府の中枢を側近で固め、自らリーダーシップを発揮し政務に当たった。

総評

 徳川家康は幼い頃から我慢に我慢を重ねて、15歳で初陣し、今川滅亡、三河一向一揆の内紛、武田信玄との三方ヶ原の戦い、本能寺の変での逃亡、北条と甲斐を争った天正壬午の乱、豊臣秀吉との小牧・長久手の戦い、小田原攻め、関ヶ原の戦い、大坂冬の陣・夏の陣と常に大きな戦を指揮し、敗戦や逆境、困難にも決して屈することもなく先見の明をもって生きたのは、やはり「強運の持ち主」としか言いようがない。

 以上、大変長く徳川家康に関して記載してきたが、もし、最初からこの最後の章まで、一気にご覧いただけた方がいるならば、深く感謝申し上げたい。

 徳川家康は戦国時代の「勝ち組」であるが故に、残っている史料も大変多い為、これだけ詳しくご紹介できたのだが、これでも、細かな点はだいぶ省いており、徳川家康の半分も語れていないと考える。しかし、これだけは言える。多くの家臣や敵将などの命と引き換えに、徳川家康は盤石な江戸幕府を開いたのだ。

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  1. 2015年 4月 09日
  2. 2015年 11月 24日

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