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本多忠朝とは
本多忠朝(ほんだ-ただとも)は、戦国時代の1582年に本多忠勝の次男として遠江にて生まれた。
母は正室である阿知和右衛門玄銕(阿知和右衛門玄鉄)の娘・於久(おひさ、見星院)
兄に本多忠政、父の側室・乙女が産んだ異母姉に小松姫などがいる。
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父と一緒に徳川家康の側にて仕え、1600年、石田三成との関ヶ原の戦いでは初陣となる。
関ヶ原では島津陣へ斬り込み、刀がまがって鞘に入らなくなるほど奮戦したことから徳川家康から賞賛されるなど、父・本多忠勝に劣らぬ活躍を見せた。
1601年、父・本多忠勝が大多喜城主から、伊勢桑名藩10万石に移封されると、旧領・上総大多喜5万石は、別家として本多忠朝に与えらている。
この時、母・於久の方は、桑名には行かず、本多忠朝と共に大多喜城に残った。
1609年、スペイン艦隊の旗艦サン・フランシスコ号が日本近海を航海中に台風に遭い難破し、ドン・ロドリゴ一行ら生き残った317名が 上総国岩和田村(御宿町)の田尻浜に漂着すると、手厚く保護し大多喜城にて歓待している。
その後、一行を江戸城へ寄らせ徳川秀忠と謁見させ、駿府城にて徳川家康との会談にも導いており、約40日滞在したロドリゴは「ドン・ロドリゴ日本見聞録」を残した。
領内の内政でもその行動が見られ、1609年には国吉原、1611年に万喜原の新田開発を行っている。
ちなみに、本多忠朝の正室は、山中城で討死した一柳直末の弟である一柳直盛の娘。
1610年、父・本多忠勝の遺言どおり、兄・本多忠政は軍資金として1万5000両を、本多忠朝に譲ろうとした(譲るのが嫌がったとも)が、この時、本多忠朝は兄の桑名領も広くて大変だろうと受け取りを固辞したとされ、本多忠政は亡父の遺命に背く訳にもいかないと、兄弟で折半する事で決着したと言う逸話もある。
この話には続きがあり、本多忠朝は嫡男である兄がもらうべき資金だとして、自分の取り分には封をし、何か急用があるまで兄の蔵で預かってほしいと申し出たとされ、結局びた1文使わなかったとされる。
1614年、館山藩主・里見忠義が改易されると、佐貫城主・内藤政長と一緒に安房・館山城の破却と、近辺の治安維持に当たった。
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1614年、大坂冬の陣に参陣すると勇猛果敢に活躍したが、酒を飲んでいて不覚をとり、敵の猛攻に遭って敗走している。
また、堀があって前進できないことから、持ち場の変更を徳川家康に願い出たため「親の平八郎に似ず、柄がでかいだけで役に立たぬやつめ」と罵倒されたともされる。
このように徳川家康に咎められた本多忠朝は汚名返上をと、翌1615年の大坂夏の陣にて、天王寺・岡山の戦いの際に、兵1000にて徳川先鋒を務めて、毛利勝永に正面から挑んだ。
総監の1人である安藤直次は「前に出過ぎだから一旦引いた方が良い」と助言しますが「一度前に出たのを引いては士気が下がる。他の部隊を当方に合わせればよい」と果敢にも言い切ったとされ、前年に徳川家康の叱責を受けたこともあり、この戦いでは同じく叱責されていた小笠原秀政と共に、死を覚悟して挑んだものと推測される。
そして、総攻撃に出た豊臣勢の毛利勝長・鉄砲隊と戦闘になると、馬上で指揮を執っていた本多忠朝に銃弾が命中する。
しばらくは、突撃して来る敵の槍部隊と応戦するも、家臣らも次々に討ち取られ、本多忠朝は20箇所以上の傷を負い、首を捕られた。享年34。
遺体を載せた戸板が徳川本陣の前を通ると、徳川家康は「惜しい男を死なせてしまった」と涙したと伝わる。
また、兄・本多忠政を呼び出した徳川家康は、討死した本多忠朝の家臣で、生き残った者には、ひとり残らず感状を与えると行ったとされ、窪田伝十郎、大原物右衛門、柳田左馬允、山本只右衛門、小鹿主馬助の5人に感状が与えられたと伝わる。
そして、徳川家康はその死を悼み、本多忠朝の遺児・本多政勝を大和郡山15万石の藩主として封じている。
一心寺と本多忠朝の墓
激戦地となった大阪・天王寺近くにある一心寺は、集まった納骨で10年毎に作る骨仏が有名です。
大阪の陣では徳川家康も一時、一心寺に本陣を置いたともされ、境内の松の姿を讃えて「坂松山」の寺額を贈ったと言われています。
その一心寺の境内東側には本多忠朝の墓が1616年に建立されました。法名は「三光院殿岸誉良玄居士」です。
本多忠朝(本多出雲守忠朝)は大阪冬の陣での反省から、討死した際の死の間際に「戒むべきは酒なり、今後わが墓に詣でる者は、必ず酒嫌いとなるべし」と無念の言葉を残したと言われています。
そのため、本多忠朝の墓がある一心寺は「酒封じの神」として信仰を集め、禁酒を誓う人々が詣で、墓碑周辺のシャモジは参拝者による断酒祈願となっています。
のちに本多忠朝の骨は分骨されて、両親と共に大多喜町新丁の良信寺(良玄寺)にも葬られました。
また、茶臼山や安居神社からも近い一心寺にも「真田の抜け穴」井戸跡と伝承のある場所が存在します。
上記写真の真田の抜け穴は、真田のぼり旗が目印で、その反対側となる墓地側(鳥羽伏見戦死者の供養碑の裏側)にあります。
市川団十郎の墓も付近にあります。
一心寺へのアクセス・行き方は下記の地図ポイント地点が入口となります。(南側からも入れます)
下記写真が一心寺の南門で、観光所要時間は10分程度もあれば充分です。
一心寺の駐車場はありませんので、付近のコインパーキング利用となります。
国道52号を挟んだ北側には、真田幸村が討死した地である安居神社がありますし、茶臼山も近いですので、是非セットでどうぞ。
・本多忠勝をわかりやすく解説【どうする家康】槍が似合う戦国の豪将・徳川四天王としての生涯
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・大多喜城とは【続日本100名城】本多忠勝の居城
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