■祇園女御(ぎおんのにょうご)の謎
白河法皇が、祇園に邸宅を造り、そこに愛人を住まわせたので、いつしか、祇園女御と呼ばれるようになったようだ。生年没、本名、素性などは不明なので、身分の低い出身であったことは間違いない。
その読み方もいくつかあり、「ぎおんにょご」、「ぎおんにょうご」、「ぎおんのにょご」、「ぎおんのにょうご」などがある。
ただし、白河法皇の寵愛を受け、祇園女御の願いで1105年、祇園社の南東に阿弥陀堂が建設された。立派な阿弥陀像が安置されるとも供養に院の殿上人のすべてが参列したり、白河法皇の重臣の従者が、祇園女御の使用人にケガをさせると、重臣の従者に対して重い罰を課すなど、祇園女御は妃や中宮にも劣らない権勢を振るったようである。
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源平盛衰記によると、祇園女御本人が平清盛を生んだとしているが、源平盛衰記は物語要素が強く、信憑性は低い。また、平家物語じたいも描かれたのは鎌倉時代以降であり、100年~200年もあとになってから編集されたもので、100%正確だとは言えない。
平清盛が生まれた際、祇園女御は40歳代であることが推定されているので、恐らく、祇園女御が生んだ子ではないと推測される。実際、祇園女御は言大納言・藤原公実の子を所望して猶子にしたりしている=子を産めない体質だったのだろう。
中右記では、1120年7月12日の書き込みに「伯耆守忠盛妻俄に卒去すと云々。是仙院の辺なり」という記載がある。
このことから、平忠盛の妻の1人が仙院(白河法皇)の周辺に仕えた女房だったと受取れる。
しかしながら、その名や出自が記載されていないので、ここでも、恐らく身分が低い女性だったと考えられ、この女性こそ、1118年に生まれた平清盛の母であった可能性がある。
1893年に発見された滋賀県・胡宮神社が所蔵する1235年の仏舎利相承系図では、祇園女御の妹が、平清盛の母であり、母の死後に姉の祇園女御が猶子として養育したとあり、一般的にはこの説が使われているのだ。
<祇園女御の諸説>
源仲宗の室説。 藤原顕季の遠戚説。 堀河天皇中宮篤子内親王の侍女説。 祇園社近くの屋敷に勤める水汲み女説。
■祇園女御塚
祇園女御の住居跡とされる場所に「塚」があった。
京都市東山区の祇園町の東側、円山音楽堂の西側だ。(八坂神社の南東)
この塚に触れると大変な不幸が訪れると言う伝説もあったが、1994年に「阿弥陀堂」及び「祇園女御塔」は京田辺市天王に移設。
現在は、塚に変わり小さな「祇園寺」が建立されており、祇園女御の墓もある。
八坂神社境内には、平忠盛の灯籠が立つ。
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