なぞの女王とも言われる卑弥呼(ひみこ)ですが、いったい、どんな立場の女性だったのでしょう?
分かっている事実を踏まえまして、可能性がある卑弥呼の真実を、できる限り簡潔に考えてみました。
卑弥呼の名前が登場するのは魏志倭人伝(ぎしわじんでん)です。
この魏志倭人伝は、単独の書物と言うものではなく、中国の歴史書「三国志」中にある「東夷伝」と言う一部の項目に記載があるもので、中国の歴史の話の中に日本に関する記述も入っている部分が「魏志倭人伝」と言う事になります。
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三国志・魏志倭人伝が記載されたのは、だいたい西暦290年頃でして、中国の書物としては初めて日本の事がまとまった状態で記されていることになります。
魏志倭人伝の内容
魏志倭人伝の内容としては、概ね下記のとおりです。
まず、日本人の事を「倭人」(わじん)と呼び、日本国の事を「倭国」と記しています。
その昔は100ヶ国前後に倭国は分かれていて、倭国で長い騒乱が起こったと言います。
簡単に言うと、日本での最初の戦国時代かも知れません。
国の名前だけで下記のようたくさん出てきます。
狗邪韓国、対馬国、一支国(いきこく)、末盧国(まつろこく)、伊都国(いとこく)、奴国(なこく)、不弥国(ふみこく)、投馬国(とうまこく)、邪馬台国(やまたいこく)。
狗奴国(くなこく)も出てきます。
邪馬台国の北(ようするに東)にある国は下記の通りとされます。
斯馬国(しまこく)、已百支国(いわきこく)、伊邪国(いやこく)、都支国(ときこく)、弥奴国(みなこく)、好古都国(をかだこく)、不呼国(ふここく)、姐奴国(さなこく)、対蘇国(とすこく)、蘇奴国(さがなこく)、呼邑国(おぎこく)、華奴蘇奴国(かなさきなこく)がある。
つぎに鬼国(きこく)、為吾国(いごこく)、鬼奴国(きなこく)、邪馬国(やまこく)、躬臣国(くじこく)、巴利国(はりこく)、支惟国(きくこく)、烏奴国(あなこく)、奴国(なこく)、狗奴国。
※読みは安本美典著の卑弥呼は日本語を話したかなどを参照
分かっていることは下記の通りになります。
・卑弥呼の時代には国が約30程度。
・対馬国は現在の対馬で、良田がないので、海産物で自活しており、大官を卑狗(彦)といい、副官は卑奴母離(夷守)だとある。
・一支国は漢字を間違って記載していたと考えられ壱岐国だと推定されている。
・末盧国は肥前・松浦(九州の北)。
・伊都国は福岡県糸島市や福岡市西区付近。
・奴国は博多付近で約2万戸とある。
・邪馬台国に女王がおり、その北にたくさんの国がある。
・狗奴国は女王の国に属していない。
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卑弥呼と邪馬台国の記述
邪馬台国と卑弥呼の記述は詳しく掲載されています。
元々は男子を王として倭国を治めていたが、70年~80年前から倭国全体で長期の騒乱が発生した。(倭国大乱)
そこで、卑弥呼と言う女性を王として争いを鎮めた。
卑弥呼は、鬼道に仕えて、衆を惑わした。
年長だが夫はいなかった。
そのため、弟が国政を担当した。
卑弥呼が王となって以来、人とはほんど会わない。
1000人の従者が仕えたが、ただ一人の男子が居室に入って、飲食の給仕、伝言の取次ぎをした。
城柵が設けられ、常に兵が守衛している。
卑弥呼は景初2年(238年)以降、帯方郡を通じて「魏」に使者を送り、皇帝から「親魏倭王」に任じられた。
正始8年(247年)には、狗奴国との紛争に際し、帯方郡から塞曹掾史張政が派遣された。
正始8年(247年)頃、卑弥呼が死去すると「塚」がつくられ、100人が殉葬された。
その後、男王が立てられたが、人々はこれに納得せず、内乱で1000余人が死んだ。
そのため、卑弥呼の後継者(宗女)である13歳の少女・壹與が王に立てられると、改めて国は治まった。
上記のように記載されていますが、魏志倭人伝に記載されている事項は、要するに日本(倭国)から魏(中国)に渡航した人から聞いた話がまとめられていることになります。
そのため、明らかな間違いもところどころにあります。
そのように考えますと、「卑弥呼(卑彌呼)」と言う文字に関しては「ひめみこ」と話したものが、発音がうまく伝わらず「ひみこ」となってしまい、この漢字が充てられたものと推定できます。
「ひめみこ」と言うのは、姫巫女(日女御子、姫御子)、もしくは日巫女(日御子)、すなわち「ミコト」(命・尊)である神様(太陽神など)に仕えていた、高貴な姫(女性)とも考えられます。
ただし「皇女」(こうじょ)も、実は「ひめみこ」と呼んでも間違いではありません。
そもそも、卑弥呼と言う漢字は、今では「ひみこ」と読めますが、当時の中国で、ひみこと発音したかと言うと、不明瞭な部分もあり、違う読み方をしていた可能性もあります。
それは、上記で挙げた漢字の国の名前の読み方が、難しいことからもお察し頂けると存じます。
ともあれ、ひめみこ・ひみこは、邪馬台国の王室に生まれた女性(皇女)のことで、巫女として神に仕えていましたが、騒乱を鎮める際に、連合国の女王に担ぎ出されたと言っても良いでしょう。
そして弟が政務を担当したと言う事です。
人とほとんど会わないと言うのは、毎日、神様に祈りを捧げるのが仕事だったとも推定できます。
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倭国の様子
魏志倭人伝には、弥生時代後期であるこの頃の日本の様子もいろいろと記載されています。
男はみな顔や体に入れ墨をしている。
風俗は乱れていない。
男は髪を結って髷をつくっていて、女はざんばら髪。
温暖で、冬も夏も・生野菜を食べている。
兵器は矛、盾、木弓を用いる。
身分の高い者は4~5人の妻を持ち、身分の低い者でも1人ではなく、2~3人の妻を持つ男がいる。
女は慎み深く嫉妬しない。
盗みをする者も少ない、
一族には序列があり、上の者の言い付けをよく守る。
天照大御神
日本神話に登場する神としては天照大御神(あまてらすおおみかみ)がいる。
日本書紀では天照大神と書き、古事記では天照大御神と記載されている。
天照大御神も女性であると考えられており、夫はいなかったが、須佐之男の命、月読の命という弟がいる。
このように、卑弥呼と天照大神の置かれた状況が似ている点は、単なる偶然なのでしょうか?
天照大神は、皇室の祖神であり、日本国民の総氏神ともされ、伊勢神宮(内宮)の主祭神でもあります。
この天照大御神と言う女性「ひめみこ」の話が、中国に伝わった際に「ひみこ」になったとも?考えられるでしょう。
しかし、宇那比姫命(日女命、大倭姫)が卑弥呼とする説も、現実味があるようで捨てがたいです。
卑弥呼の死後、争いとなるも、また女王が治めたとありますが、その新しい女王が天照大神と言う可能性もありますし、ほんとうに解釈は難しいです。
邪馬台国はどこに?
天照大御神と卑弥呼は、生きた時代に整合性が取れない、少しずれていると考えると、邪馬台国(やまたいこく)は九州にあった可能性もあるでしょう。
しかし、卑弥呼=天照大神と言う事になると大和だと感じます。
そもそも「やまたいこく」と言う発音は「やまとこく」に非常に似ている訳でして、通訳を介すと、大和国(やまとこく)が「やまたいこく」となって、当て字の漢字が使われても、おかしくない訳です。
このあたりが、邪馬台国があった場所の論点になってくると考えます。
でも、卑弥呼の塚である「古墳」は、どこにあるのでしょう。
気になりますね。
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なお、上記に記載した内容が、正しいと申している訳ではありません。
このサイトの他の記事もすべてそうですが、説としてご紹介し、その可能性があるという事でございます。
100%正しいと断定するものではありませんので、歴史には諸説ありますこと、ご確認申し上げます。
もちろん、皆様のご意見があれば、コメント欄にお寄せ賜りますと幸いです。
ただし、自分が正しく、他の人は間違っているなど、批判・断定するような記載内容は、ご遠慮賜りますと幸いです。
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邪馬台国は、魏志倭人伝の方角や距離の記述を正しいとすると、徳島にあったそうで、八倉比売神社にお墓があるとされます。夫はいなくても唯一の男出入りがあったなら、隠し子はいたかも。古事記日本書紀で、最初にできた島が淡路島で、次が四国、というのも、整合します。台与が神宮皇后で、四国から、離島、九州などまとめて、大和朝廷の政権を安定させたのかも知れません。京都に文化庁はわかるが、徳島県神山町に消費者庁は、何故?という感じがします。しかし、邪馬台国の卑弥呼が徳島にいたとすると、合点がいきます。2025年大阪万博までに、邪馬台国徳島説の証拠を集めて、広めれば、分断占領されやすくする大阪都構総以上に、良い成果が期待できそうです。
大変興味深い記事を読ませて頂き、ありがとうございました。
一点、誤字(とみこ→ひみこ?)がございましたので、報告させて頂きます。
『そもそも、卑弥呼と言う漢字は、今では「とみこ」と読めますが、』
通りすがりさま、ありがとうございます。
誤字のご指摘、非常に助かります。
御礼を申し上げます。(^-^)