箸墓古墳 倭迹迹日百襲姫命が卑弥呼なのか?

箸墓古墳

箸墓古墳(はしはかこふん・箸中山古墳)は、奈良県桜井市箸中にある前方後円墳です。
墳丘の長さは278メートルですが、かつてはもう一回り大きかったと推測されているようです。

被葬者は不明ですが、宮内庁によって大市墓(おおいちのはか)、すなわち、第7代・孝霊天皇と、妃の倭国香媛(やまとのくにかひめ)との間に生まれた皇女・倭迹迹日百襲姫命の墓として治定されています。
倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)は、巫女的な女性として知られます。
吉備津彦命(きびつひこのみこと)とは兄弟の可能性があります。
日本書紀によると、この百襲姫は「大市」に葬られて、人々はこれを「箸墓」(はしはか)と称したと記されています。

同じく日本書紀によると、倭迹迹日百襲姫命は大物主神(おおものぬし)と結婚します。
しかし、大物主神は昼には現れず、暗くなった夜にだけ出現していたとされます。


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そのため、百襲姫(ももそ-ひめ)は、夜ごと訪ねてくる大物主に「明るいところで顔をみたい」と頼んだと言います。
最初は拒否されますが「絶対に驚いてはいけない」という条件つきで、朝になって小物入れ・櫛笥(くしげ)を覗くようにと指示されました。
そしう、朝になって百襲姫が小物入れを開けて中を見ると、小さな黒蛇の姿があり百襲姫命は驚きます。
驚いた百襲姫は尻もちをつき、置いてあった箸(はし)が陰部に突き刺さって、亡くなってしまったとされます。

箸墓古墳は放射性炭素年代の測定結果では、西暦240年~260年頃に古墳ができたと推定されていますが、これが正しいと、全国の古墳の中でも最古級となります。
発掘調査を行えば、もっと違うことが判明するかも知れませんが、ご承知の通り、宮内庁管轄の古墳は発掘の許可がおりません。

1998年に吉備(岡山)にて作られたと考えられる特殊器台・特殊壺が後円部の上で発見されました。
台風によって木が倒れて、その根っこが地上に出た際に、大量の土器も現れたのです。
弥生時代終末期の葬送用土器と同一型式であることからも、古墳時代初頭の西暦250年~300年前後と推測できます。
兄弟の吉備津彦命は、吉備の吉備津神社などで祭神となっています。
百襲姫(ももそひめ)は讃岐に派遣されて、現地で農業指導などを行ったともされています。


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そもそも「皇女」と言う漢字は、こうじょ・おうじょだけでなく「ひめみこ」とも言います。
卑弥呼(ひみこ)の発言とも非常に似ているわけですね。

ということは、卑弥呼と言うのは「皇女」のことであると考えて良いかも知れません。
しかし、今でもそうですが、天皇(ヤマト政権)には皇女は何人もいる訳でして、魏志倭人伝にある卑弥呼が、皇女の誰なのか特定するのは、難しいと考えるのが自然かも知れません。
ただし、皇女・百襲姫命が、卑弥呼である可能性も捨てきれません。

魏志倭人伝では、卑弥呼が反乱を鎮圧したとあります。
百襲姫は、巫女の能力にて武埴安彦とその妻・吾田媛による謀反の前兆を悟り、謀反が起こったが鎮圧するのに貢献したともあります。
果てして、百襲姫が卑弥呼なのか、なかなか興味深いところです。

なお、上記に記載した内容が、正しいと申している訳ではありません。
このサイトの他の記事もすべてそうですが、説としてご紹介し、その可能性があるという事でございます。
100%正しいと断定するものではありませんので、歴史には諸説ありますこと、ご確認申し上げます。
もちろん、皆様のご意見があれば、コメント欄にお寄せ賜りますと幸いです。
ただし、自分が正しく、他の人は間違っているなど、批判・断定するような記載内容は、ご遠慮賜りますと幸いです。

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