奥村弥五兵衛(おくむらやごべえ)、奥村弥五兵衛光親(みつちか)、奥村光親は、1552年生まれの真田家の草の者。
奥村弥五兵衛(奥村光親)の父・弥介は甲賀出身の忍びで武田信玄に仕えており、その後、真田昌幸の忍者(諜報活動)として仕えた。
第1次上田城の戦い(上田合戦)では、1585年閏8月2日、神川の戦いで忍者部隊を指揮し、徳川勢相手にゲリラ戦を行ったとも伝わる。
また、関ヶ原の戦いでは、姉山甚八ら14名にて福島正則の兵を装って徳川家康を討ったが、それは影武者であったともあるが、上田合戦以降の話は、すべて創作の話だと推定される。
スポンサーリンク
真田昌幸と眞田幸村が九度山に蟄居となると、京に潜入して「印判師・仁兵衛」として暮らし、加藤清正と九度山蟄居中の真田昌幸・幸村父子のつなぎをしたとされる。
のち、加藤清正に従うと、熊本へ同行したともある。
1610年には、上洛する徳川家康を暗殺しようとしたが、山中忍びの追跡をうけ、迫小四郎の投網に捕らわれて死亡したとも。
コメント
コメント ( 0 )
トラックバックは利用できません。
この記事へのコメントはありません。