狛江にある泉龍禅寺(泉龍寺)ですが、伝説によると、良弁僧正が765年にこの地にきて雨乞いをし、寺を創建したのが泉龍寺のはじまりとされています。
良弁僧正は、奈良東大寺や伊勢原の雨降山大山寺も開山した高僧です。
泉龍寺の南東側すぐの森の中には良弁(ろうべん)僧正が雨乞いをした折に湧き出したとされる「泉」が湧いており、弁財天池と呼ばれています。
今でもとても澄んだ水を湛えていますので、湧水であることがわかります。
949年になると、賀聖が天台宗に改めて聖観世音菩薩を安置しました
その後、寺は衰退して小さな観音堂だけになっていたようですが、泉祝和尚が旅の途中に立ち寄り、泉の畔で霊感を感じたため、曹洞宗の参禅修行道場として泉龍寺を復興しました。
1590年、豊臣秀吉の小田原攻めのあと、関東に入った徳川家康は、旗本・石谷清定に入間村に150石と、ここ和泉村(狛江市)に100石を与えます。
そして、狛江駅の南側付近に石谷氏陣屋を築いて下屋敷とすると、石谷清定は泉龍寺の霊泉に中島を造って弁財天像を祀るなどし、整備をしましたが、1601年5月2日に死去しています。
石谷氏陣屋があった場所は、確認されていませんが、古い地名などから狛江駅のすぐ南側であったと推定されているようです。
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石谷清定とは
もともと、石谷家は、遠江の佐野郡西郷石谷(掛川市)を本貫とし、石谷政清の4男が石谷清定(いしがや-きよさだ)となります。
今川義元のあと、今川氏真に仕えていましたが、1569年頃に徳川家康に臣従しました。
石谷清定(いしがや-きよさだ)は1547年生まれとされますので、恐らく父・石谷政清や兄・石谷政信と共に徳川家康に仕えたのでしょう。
1571年、石谷清定は大番に列しており、正室は久嶋與平の娘です。
次男・石谷清正があとを継ぎ、1602年から徳川家康に仕えて、1100石まで加増を受け、1656年10月13日に69歳で死去しました。
なお、石谷清定の3男・石谷貞清(いしがや-さだきよ)は、徳川秀忠の家臣として大阪夏の陣にも出陣。
島原の乱では板倉重昌の副使として西国の諸侯の指揮に加わり、1651年6月18日には江戸北町奉行になっていますす。(2500石)
上記写真は泉龍寺の境内・墓地にある石谷家の墓所です。
狛江の泉龍禅寺(泉龍寺)ヘのアクセス・行き方ですが、小田急電鉄の狛江駅から徒歩2分と大変便利です。
車の場合には、狛江駅の北口ロータリーから泉龍寺への細い道をまっすぐ進んでいくと、境内に10台くらい止められます。
下記の地図ポイント地点が、正式な入口となりますが、車は東側から入れます。
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