伝林坊頼慶とは
皆さんは、伝林坊頼慶(でんりんぼう-らいけい)という人物をご存じでしょうか?
多くの方が知らないと答えるかと思います。
彼は明から渡ってきた武術家で、日本では忍者として活躍しました。
今回は、異国の忍者となった伝林坊頼慶を多くの方に知ってもらいたいために、頼慶が歩んだ生涯を追っていきたいと思います。
丸目長恵に弟子入り
残念ながら、頼慶の中国における経歴やどのような理由で日本に来たのかわかっておりません。
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日本に来た際には、長崎で丸目長恵の弟子に当たる小田六右衛門夕可と決闘。タイ捨流始祖の長恵の元で育たられた夕可は強く、頼慶は敗れました。それきっかけに、長恵の弟子となります。
長恵に頼慶は気にいられ、直伝免許之衆の1人となります。それに当たって、代稽古を任される役目も担い、長恵の高弟にも数えられました。
また、頼慶はタイ捨流に中国武術を取り込み、新しい武術を開発しました。その武術は忍術と呼ばれるようになり、頼慶はタイ捨流の忍術指導の総帥として名を馳せます。
タイ捨流の特徴として、剣術には目潰しや関節技といった体術が採用されています。これは、中国武術の要素がタイ捨流に取り入れられた結果でした。
また、水軍指導の際には有瀬外記を救い、その上で中国式のうたせ船を造船しました。このことからわかるように、頼慶は水に慣れていたことがわかります。日本へ来た際の航海の腕が優れていたということでしょうか。
裏タイ捨の創設
師匠の長恵が1629年に死亡し、その6年後に頼慶は修験者となります。巡礼地は、肥前国の岩屋山でした。その地で、頼慶は修験者の指導者となり、いつしか忍者軍団を組織するようになりました。
忍者軍団は(裏タイ捨)や頼慶が相良氏に仕えていたことから、(相良忍軍)と呼ばれていました。この軍団は、幕府勢力の柳生氏や伊賀、甲賀に対抗したとされています。
慶安4年1651には、弁慶夢想と名を変えた頼慶が、 武次与三兵衛にタイ捨流の免許を与えた記録が残っています。
これ以降、頼慶の略歴は不明。ただ、頼慶は師匠であった長恵の隣に埋葬されました。
秘文書には頼慶の影が…
現在も残っているタイ捨流の秘文書には、犬隠れの術や木の葉隠れの術、柴隠れの術といった逃げるための忍術が記されていることがわかっています。さらに、秘文書の1つには中国式の挿絵を入っており、頼慶の系統の絵ではないかと言われています。
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長恵の隣に埋葬されたこと、タイ捨流に中国武術を組み込んだ功績からわかるように、頼慶はタイ捨流に欠かせない人物だったことがわかりますね。
寄稿(拾丸)
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