池田綱重(いけだつなしげ、池田長門守綱重)は真田昌幸の家臣で、砥石城代を務めた時期もあったと言う。
真田昌幸の話によると「真田家随一の奇襲の名人」とされ、徳川勢との第1次上田城の戦い(上田合戦)では、鉄砲隊を率いて、徳川の先鋒部隊を奇襲攻撃した。
真田昌幸が豊臣秀吉に臣従したあとは、伏見の真田屋敷に移り、真田本家の留守居役を務めた。
1600年、石田三成と徳川家康の関ヶ原の戦いのあと、伏見から脱出することに成功して、上田城に戻った。
その後、真田昌幸・真田幸村の高野山配流が決まると、真田信之に願い出て、紀州・高野山に入った家臣275名の1人に加わっている。
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九度山では、原出羽守、小山田治左衛門など、家来の中でも身分が高かった1人であり、真田庵(真田屋敷)の北面に住居を設けた。
低い石垣と板塀で隔てられていたが、双方の出入りは自由であったとようだ。
その後、真田昌幸の死後、沼田城に戻ったとされ、大阪の陣では真田信之に従って大阪城の戦いに参加し、真田幸村とは敵になったと言う。
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