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「1両は価値は?」と、コメント欄よりご質問を賜りました高橋様にご回答するような形で掲載させて頂いております。
1両は今のお金に換算すると、いくらぐらいなのだろうか?
私も20年前くらいに気になって調べたような記憶がございます。
具体的には下記の通りです。
江戸時代前期、1両=約10万円(銀50匁)
江戸時代、最初の200年間は、物価は安定しており、ほとんど上がっていません。
江戸時代末期、1両=約5万円.(銀60匁)
上記は日本銀行金融研究所貨幣博物館の資料による、現在の「米」の値段との比較による解釈です。
ただし、今でこそ日本人は毎日食べるコメですが、江戸時代中期までコメを食べるのは武家・農家くらいでして、一般庶民は余り食べる機会がなく、コメで比較して良いのかと言う疑問は残ります。
更科姫伝説があるように江戸の街に3000軒あったとされる「そば屋」で食べる「かけそば」の値段で比較致しますと、1両は12万円~15万円の貨幣価値になるそうです。
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なお、生活水準と言う所で比較してみますと、よく「大工さん」の月給で比較されることがあります。
大工さんの給料は年間25両くらいです。
この25両を換算してみますと、1両は30万円~40万円も価値があると言います。
と言うのは、江戸時代の大工さんの給料は現在では年収800万~1000万くらいの生活水準だったからなのです。
でも、大工さんは1日4時間30分程度の労働が年間約300日です。
このように、比べる物や状況によっても貨幣価値が全然異なる為、一概に1両=いくらとは言えないのです。
実際問題、現在のコメの価格と比較しようにも、そのコメじたいが10kg3000円のもあれば、5000円以上するのもありますよね?
なので、正確な比較は困難なのです。
よって、小生の場合には、割り切りまして、計算しやすく1両=10万円にて、だいたいこのくらいなんだなと、いつも計算致しております。
これで計算して、なんか少なすぎるな?と感じた時は、1両=40万で計算することもあります。
ちなみに、日本人の6人に1人が旅行したと言う「伊勢参り」ですが、1両あれば20日程度、旅ができたと言います。
更に、ちなみにですが、江戸時代の富くじの1等賞は1000両。すくなく見積もって1億円ですね。
石高の貨幣価値は?
なお、戦国時代後期にもちいられた石高ですが、これはだいたい、1石=1両と言われています。
ちなみに、戦国初期にもちいられた「貫」は、これも諸説ありますが、概ね、4貫で1両。
すなわち、200貫文だと、50石だと言えると存じます。
江戸時代の税金
ついでに江戸時代の税金もご紹介しておきます。
江戸時代の百姓へは税金は「四公六民」と言って、だいたいコメの収穫の40%は税金として納めましたが、この割合も藩によって異なります。
厳しい所ではもっと割合が高い藩もありました。
なお、農民も役人に賄賂を贈りましたので不正が多く、将軍・徳川綱吉のときには、幕府の年貢収容率も30%以下に低下しています。
幕府や藩の財政を圧迫したのも、わかりますね。
戦国時代にはだいたい50%であり、戦費がかさむともっと税が重かった場合もありますが、善政を敷いた北条家が四公六民だった事は有名です。
ただし、そんな年貢も、追い詰められた大名は必ずと言って良い程、上げており、その時、領民は重税に苦しんでいます。
例えば、武田勝頼の滅亡直前であったり、豊臣秀吉の朝鮮攻めで戦費がかさんだ諸大名もそうですし、会津戦争になった会津藩も兵器購入の為、最後には重税を課しています。
なので、戦国・甲斐の領民や、幕末・会津藩の領民は、最後には武士にほとんど協力しておらず、むしろ滅亡したのを喜んでいたくらいです。
なお、江戸時代の「町民」はと言いますと、これが結構、税金が安かったようです。
消費税、所得税、贈与税、相続税はありません。
ただし、固定資産税のように、住んでいる「街」、すなわち区画によって税額が決まっていました。
家の大きさにもよりますが、江戸の中心部に住んだ場合、年間で0.5両程度だったようです。
長屋に住む町民は、家賃に税金が含まれており、江戸の庶民は長屋(借家)に住むのが普通でしたので、庶民は税金を支払っていると言う感覚は無かったと言います。
ただし「公役」(くやく)と言う、公の事業の為に勤労奉仕する必要がありました。
なお、商人からは物量に応じてなどの税が課せられていましたが、これも様々です。
これらを考えますと、現在の税率がいかに高いかわかります。
そして、これだけたくさん税金やら社会保険を払っていても、国家は大赤字でして、状況が悪いと言うのも良くわかりますね。
オマケ情報
最後に雑学と申しましょうか、おまけです。
江戸の庶民の多くが住んだ「長屋」の大家さんは、江戸城・大奥の御年寄なども多く、年俸1億円とも言う給料をもとに今で言うアパート経営をしていました。
そして、江戸中期以降になると、職人などのほとんどの食事は「外食」になります。
と申しますのは、大火が起こる、長屋で火を使うのが禁止されたりしたこともあったようです。
「居続けて飲む」という「居酒屋」もはやりました。
江戸の庶民は朝起きて仕事に出ると、昼食はだいたい食べません。
もともと戦国時代まで、日本には昼ご飯を食べる習慣はなかったのですが、江戸時代に入りロウソクで夜まで起きていることが多くなると、その分、農民は昼に休憩するようになり「昼ご飯」を取るようになったと言います。
そして、江戸に住む町民は、農家ではありませんので、まずコメじたいを食べる事はあまりなく、昼も取る事はなかったと言います。
朝から昼過ぎまで仕事をしたら終わりで、16時に閉店してしまう「銭湯」に行って砂ぼこりを落とし、日が暮れる前に食事して家に帰るのが日課ですね。
ちなみに、江戸時代後期まで銭湯は「混浴」が当たり前で、江戸には600軒もの銭湯がありました。
以上、急いで調べてみました。
高橋様や皆様の参考になれば幸いですが、もちろん諸説ありますので、上記に限った事ではないことご理解賜りますと幸いです。
コメント
コメント ( 2 )
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*実に、わかりやすい説明、大いに勉強になりました。成程、1両=10万円ですか。よく生前の母が、10両盗めば、首が飛ぶと標語のように、言っていましたが、思ったより大金ですね。大工さんの年収が、1000万ですか。江戸の棟梁クラスですか。川越の場合だと、60両位になってしまいますかね。誰も江戸へ来たがったわけが、わかりました。同時代のロンドンなんかと比べても、よりハッピーだったのかもしれません。お伊勢参りのお話も、実に興味深いものでした。武蔵の国のお百姓さんなら、慶安お触書なんかに縛られ、うっとうしい面もあったかもしれませんが、講みたいな制度を利用してお伊勢参りなどもできたわけですから、必ずしも過酷とも言えませんね。一人、4両ほどあれば、村人に向けてのおみやげや、京都、大阪のオプショナルツアーも含めて、結構な旅が出来たことでしょう。それに農民は、お伊勢参りということで、天照大神や歴代の天子様を、尊敬していたのですね。将軍様以上ですかね。ありがとうございました。
galwayera@gmail.com 高橋正博
高橋様、さっそくご覧頂きましたご様子で嬉しく存じます。
成人男性の場合「仕事」をしないと江戸に住むことが許されませんでしたので、全員がそうとは限りませんが、長屋の大家さんが仕事を世話して、その給料の10%を家賃としてもらったと聞きます。ともあれ、江戸では仕事が簡単に見つかったようです。
また、長屋と言うのは便利でして、草津温泉に何ヶ月も湯治に行くなど、旅行する際には、家財道具を質屋に入れて、長屋を退去してから出向いたそうです。
江戸に戻ったら、質屋に入れていた家財を買い戻して、また住めば良いと言う、なんとも効率も良い時代だったようですね。