前回、安倍晴明と並んで平安時代を代表する陰陽師として賀茂保憲を紹介しましたが、陰陽師としての賀茂氏を隆盛させたのは彼一代だけの功績ではなく、保憲の父も欠かすことが出来ない存在でした。その父こそが、本項の主人公である賀茂忠行(かものただゆき)です。
出生が謎に包まれた能吏・忠行
賀茂保憲の父である忠行は著名な息子を持ち、本人も有能な陰陽師として多くの伝説を残していますが、その生年はおろか実の親もはっきりとしてはいません。賀茂峯雄の子とする説と、奈良時代末期の貴族である賀茂人麻呂の息子・賀茂江人を父に持つとする二つの説があります。
彼が歴史の表舞台に登場したのは天慶3年(940年)頃、近江掾の位にあった時です。平将門・藤原純友の乱が勃発したおり、戦乱や災害を退けるとされる密教の修法である白衣観音法を修するべきであると藤原師輔に進言しました。これらのことから、詳しい生年は不明ではあるものの忠行はこの時点で朝廷への出仕・仕官が出来る年齢であったと思われます。
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天暦3年(949年)で、正六位上、近江国権少掾(書紀業務など担当)を拝命し、3年後の天暦6年(952年)には従五位下を賜っています。忠行が陰陽師として名を馳せたのは、彼が丹波権助に叙された天徳3 (959)年に村上天皇の御前で射覆(※1)を行った時のことです。忠行は、自分の前に出された八角の箱に朱のひもでくくられた水晶の数珠が入っていると見事に言い当て、その手腕を称えられました。
陰陽界の二大ヒーローを見出し、後進を彼らに譲って去る
しかし、その忠行が遺した功績でもっとも大きいと言えるのが、嫡男の賀茂保憲と弟子の安倍晴明と言う平安期を彩る陰陽師2人を見出したことです。儀式について来た幼い保憲に鬼神を見抜く天性の神通力があるのを見た忠行が、大いに喜んで彼を陰陽道の後継者にした賀茂保憲の項で紹介しましたが、晴明にも忠行に才能を称賛されたエピソードがあります。
それは、ある夜に下京の辺りに出かけた忠行が牛車の中で眠りこけていると、鬼がやってくるのに気付いた若き晴明に叩き起こされ、法術を行って難を逃れた伝承です。このことがきっかけで忠行は晴明をかわいがり、目をかけてやるようになったと『今昔物語集』に記されています。
賀茂忠行の晩年について詳細なことは分かっておらず、村上天皇に才能を絶賛された射覆が行われた翌年の天徳4年(960年)に亡くなったと言う説があります。ただ一つ分かっているのは、忠行の衣鉢を継いだ保憲と晴明によって陰陽道は隆盛を極めていくこととなり、彼らを見出して育て上げた揺るぎない功績は陰陽道の歴史に確かな足跡を残していることです。
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(※1)せきふと読む。筮竹などを使った易占いで、覆いをかけたものが何かを当てる。
(寄稿)太田
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