謎に包まれた第26代継体天皇について

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継体天皇

継体天皇とは

継体天皇(けいたいてんのう)は、古墳時代、第26代の天皇である。近江または越前の豪族であったとされる。この継体天皇、歴代天皇の歴史の中でも不明確で謎に包まれた天皇だと言われている。その前に継体天皇の前の25代は武烈天皇という。この武烈天皇、暴君で残虐な天皇だと伝えられている。人の爪をはいで芋を掘らせたり、妊婦の腹を裂いて胎児を見たりと暴虐な行為をする天皇だったという。だが18歳という若さで子供がいないまま崩御したため後継者選びに苦慮することになった。そこで選ばれたのが第15代応神天皇の5世の孫であった継体天皇であった。そこで一つ目の謎だとされているのが5世という離れた血縁ということである。二つ目の謎は河内の即位から大和入りするまで実に20年もの歳月を費やしている点である。この時即位の時点で57歳と高齢での即位となる。最初に一つ目の謎について触れていきたい。5世代の孫というこれほど遠い王族が天皇になったことは長い天皇の歴史上これまでにはもちろんないことである。しかも出身地だが現在の滋賀県に当たる近江国三尾で生まれたとされている。生まれた後、母の故郷である越前三国に移ったといわれる。


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幼少期に父を亡くしたの記録もある。つまり畿内からは離れていたということもわかる。これについては継体天皇と応神天皇の間の4代は近江や越前を拠点としていたこと、また現地の豪族と婚姻関係を結んでいたこと、さらにはそもそも応神天皇の5世代の孫というのは創作であり、北陸、近江を拠点としていた有力豪族が新たに新王朝を立てたのが継体朝であるとの見解もある。応神天皇の実在性が不明、その4代前も不明ということからここで新王朝になったのではないかという説になる。話は戻り武烈天皇の残虐性は述べたところだが、この暴君で残虐であったというのも創作なのではないかという説がある。理由はこういったマイナスなイメージを与え、継体天皇自身を後継者とする正当性と天皇位を継ぐ者としてふさわしいという印象を与えたかったのではないかとする見方もある。こうして継体天皇は大伴金村に説得され河内国楠葉宮(大阪府枚方市)で即位した。それに伴って仁賢天皇皇女、手白香皇女と婚姻。継体天皇の後は安閑、宣化、欽明の三人の子が順に即位したと日本書紀には記されている。次に二つ目の謎の即位から大和入りに20年かかった点だが、こちらは周辺豪族同士の皇位をめぐる争いがあったということ、継体朝に対しての反発や妨害があったとの様々な憶測がある。継体天皇の功績の一つに九州筑紫の豪族、磐井の反乱を鎮圧したことが挙げられる。これについては次章に記述する。


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関係した人物と磐井の乱とは

磐井の乱とは九州、筑紫の豪族の磐井が起こした反乱である。磐井は新羅と結びつき反乱を起こした。きっかけは6世紀初め朝鮮半島の新羅は任那に侵攻した。継体天皇は任那を救うため朝鮮半島に派兵をする道中に九州で反乱に遭う。この磐井は九州北部に本拠を置く強大な勢力だったといわれ福岡県八女市には磐井の墓であるとされる岩戸山古墳がある。この反乱で活躍したのが『物部麁鹿火』である。麁鹿火は継体天皇の即位に成功させ、当時朝廷の最高指導者であり、磐井討伐軍の将軍にも命じられ反乱を鎮圧した。また継体、安閑、宣化の3天皇に従った。激闘の末、麁鹿火は勝利し、磐井は逃亡したが途中で亡くなり子の葛子が生き残ったが降伏し、これにより朝廷の九州支配につながった。磐井軍の数は不明とされているが、朝廷側は6万だったと日本書紀には記されている。こうして継体天皇は波乱万丈な生涯を送りつつも着実に実績を作り、何よりも皇統を繋いだという点を評価してもいいだろうと思う。即位が遅かったにも関わらず在位24年は彼の政治手腕があったともいえる。出生~崩御まで今でも謎に包まれた天皇ではあるがその後の安閑、宣化天皇も名君だったと言われている。


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継体天皇は、82歳で玉穂宮にて崩御した。

(寄稿)田村麻呂

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