筑波・蚕影神社(蚕影山神社) と金色姫伝説

蚕影山・蚕影神社

茨城県つくば市にある蚕影(こかげ)神社は、「蚕影山神社」「蠶影山神社」「蚕影大神」「蠶影神社」とも呼ばれています。
つくば市神郡にある田井小学校を過ぎて、老人保健施設「豊浦」を越すと山麓に着きます。

筑波は日本の絹の発祥の地という説もありますが、蚕影山神社の創建は、第13代成務天皇の御代のとき、オシコリミノミコトの孫のアベシコノミコトが、筑波国造として筑波神社に奉任し、豊浦に1祠をつくり、ワクムスビノ神を奉祀して、農蚕を奨励したのが始まりと言われています。
成務天皇は西暦135年9月、諸国に令して、行政区画として国 ・郡(こおり)・県(あがた)・邑(むら)を定め、それぞれに国造(くにのみやつこ)・県主(あがたぬし)・稲置(いなぎ)等を任命して国家体制の整備を図りましたので、それが本当であれば、創建は136年頃、今から1800年以上前と大変古い創建となります。
イザナギ・イザナミの神を祭神とした筑波山の山岳信仰もあり、筑波は昔から信仰の地であったことが良くわかります。


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祭神は、ワクムスビノ神、ハニヤマヒメノミコト、コノハナサクヤヒメノミコト。ワクムスビノ神は、死後、その頭に蚕と桑を生じ、へその中に五穀を生じたという農蚕の女神です。ハニヤマヒメノミコトは、土地守護の神です。コノハナサクヤヒメノミコトは、農の神であり、子安の神です。

日本一社蚕影神社御神徳記には金色姫伝説(下記参照)がありますが、欽明天皇の皇女各谷姫が筑波山へ飛んで来られて神衣を織り、その方法を村人に教えたとも言われており、こうして蚕より繭ができ、そして糸を取ることを知り、更にこの糸を織って布にする事ができたと言われています。
また、金色姫の伝説や馬頭娘婚の伝説などが蚕影神社にはありますが、同様の伝説は日本各地にあり、そのすべてが筑波の蚕影山神社より全国に広がったと考えられています。
よって、蚕神信仰の日本における中心は筑波の蚕影神社であり、日本一社と誇号していることも納得できます。

明治時代・大正時代に入ると日本の産業として盛んに養蚕が行われ「養蚕の神様」として、農民はもとより繊維業界、特に種蚕業界では厚く信仰されたのがこの蚕影神社でした。現在でも、東京、神奈川、埼玉、群馬、山梨、長野、福島に分社があります
往年は宿屋、茶屋もあり、近年までは大型バスで来る参拝者でにぎわっていましたが、中国の養蚕に押され、日本の養蚕が衰退した今は、蚕影神社でかつての賑わいを知ることはできません。

インドの王女「金色姫伝説」

兵庫県養父郡の上垣守国が、奥州で買い求めた蚕種を研究し、養蚕を但馬、丹波、丹後地方にひろめた。彼が、享和2年(1802年)に「養蚕秘録」(全3巻)を著した中に、金色姫の伝説が紹介されている。
雄略天皇の時代(478年頃)に、天竺(インド)に旧仲国という国があり、帝はリンエ大王といい、金色姫がおりました。後添えの皇后が金色姫を憎み、大王の留守に、獣の多い山へ捨てたり、鷲や鷹のいる山へ捨てたり、海眼山という草木のない島へ流したが、ことごとく失敗して、4度目に庭に生き埋めにしました。ある日、庭から光がさして城を照らしているのに、大王が気づき、庭を掘ると、やつれた金色姫がいました。大王は継母の仕業と知り、姫の行く末を嘆き、泣く泣く桑の木で造ったうつぼ舟に乗せ、海上はるかに、舟を流し、逃がしました。
舟は荒波にもまれ、風に吹かれ、流れ流れて、茨城県つくば市の豊浦に漂着しました。権太夫という漁師に助けられ、その漁師夫婦により、大切に看護と世話をされていましたが、病を得て、亡くなってしまいました。


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夫婦は不憫な姫をしのんで、清らかな唐びつを創り、姫のなきがらを納めました。ある夜、夢の中に姫が現れ、「私に食物をください。後で恩返しをします。」と告げました。唐びつを開けると、姫のなきがらは無く、たくさんの小さな虫になっていました。丸木舟が桑の木であったので、桑の葉を採って虫に与えると、虫は喜んで食べ、成長しました。ある時、この虫たちが桑を食べず、皆一せいに頭を上げ、ワナワナとしていました。
権太夫夫妻が心配していると、その夜、また夢に姫が現れ、「心配しないでください。天竺にいるとき、継母に4たび苦しめられたので、いま休んでいるのです。」と告げました。4度目の「庭の休み」のあと、マユを造りました。
マユが出来ると、筑波のほんどう仙人が現れ、マユから糸を取ることを教えてくれました。ここから、日本で養蚕が始まったといわれています。


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権太夫は、この養蚕業を営んで栄え、豊浦の船つき河岸に、新しく御殿を建て、姫の御魂を中心に、左右に富士、筑波の神をまつって、蚕影山大権現と称号しました。これが蚕影山神社のはじめです。

馬頭娘婚の伝説

昔、ある国に娘がいた。父が遠方に出征し1年以上になる。その家には馬がいた。娘は父を思い、ものも食べなくなった。母はこれを心配して、諸人に言うには、「もし父を連れてきてくれる人がいれば、この娘を妻にあげよう」。しかし、これを聞いた人は、だれも何ともできなかった。
かの馬もこれを聞いて奮い立ち、縄を切って走り出した。やがて数日して、かの馬は父を乗せて帰ってきた。それからというものは馬はいななくばかり。ものも食べない。父がそのわけを聞いた。母は前の約束の話をした。父はこれを聞いて、「人とは約束をしたが、馬とは約束しない。幾ら何でも馬とは結婚できない。たとえ私の苦しみを救ってくれた功はあるけれども、前の約束は守るわけにはいかない」と言う。
よいえさを与えたが、馬はそれを食べない。娘の出入りごとに目を怒らしている。父は馬を撃ち殺し、その皮をはいで庭に張りつけてさらした。にわかに風が吹いて、その皮がむくれ上がり、かの娘を巻いて、いずことなく飛び去った。
何日かして皮がまた飛んできて、桑の木の上にとまった。娘は蚕となって桑の葉を食い、繭となり糸を吐き出し、その糸で絹をつくり始めた。その繭は繭層が厚く、その収穫は普通の数倍もとれた。それからは、農民は競ってこの品種を育てるようになりました。
その後、この娘の像をつくり、馬の皮の衣を着せて「馬頭娘」と言うようになりました。この馬頭娘を祭ったのが、蚕影山神社にある神馬神社ということです。

和気広虫の伝説

ユゲノドウキョウが天皇になろうとしたとき、和気清麻呂は、宇佐八幡の神託「皇位は天皇家の継ぐべきものである」ということを告げたので、法王ドウキョウによって清麻呂は鹿児島県へ、姉の広虫は広島県へ流された。
翌年、2人は許された。この広虫という人は非常に情深い女であった。エミノオシカツの反乱(764年)の後、飢饉で棄児が多かったが、彼女は、83人も拾い集めて育てたという。その中の1人に瓦職人があった。彼は常陸国へ来た。新治郡カワエラ材で石岡国分寺の瓦や、北条中台の国分寺級の瓦を焼いた。彼は筑波のふもとの娘を妻にしたので、奈良へ帰るのをやめ、神郡に落ちついた。
神郡で瓦を焼き、その方法を土地の人に教えた。現在でも神郡は瓦の産地として盛んであるのは彼のためだという。


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彼は、自分を拾って育ててくれた広虫の恩を忘れかね、彼女の画像を山の中ごろへほこらをつくって祭り、彼女の存命中から朝夕拝んでいた。広虫に育てられた子がその御影を朝夕拝むので、「コカゲ山」と言うようになったのだという。蚕影山神社が蚕の虫除けや子供の虫封じに効くと言われるのも、広虫の「虫」の字から来たものだと言われている。

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