賀茂光栄~父祖伝来の暦道を大成させた賀茂保憲の後継者~

賀茂光栄

これまでは平安期の有力な陰陽師を輩出した賀茂氏の人物として、安倍晴明の師とされる賀茂保憲とその父で保憲・晴明の才能を見出した賀茂忠行の2人を紹介してきました。本項では、この親子の後継者として陰陽道の発展に尽くした賀茂光栄(かものみつよし)を紹介致します。

陰陽家のサラブレッド

賀茂光栄は天慶2年(939年)、おりしも平将門と藤原純友が反乱を起こしたのと同じ年に、賀茂保憲の長男として生を享けました。彼の母、すなわち保憲の妻は名前が残っておらず、同母か異母かは不明ですが妹に歌人の賀茂保憲女(実名不詳)が、弟には光国と光輔の2名がいます。

光栄に関する正式な記録が残っているのは寛和2年(986年)に暦博士と備中介を兼任したことで、長徳3年(997年)には大炊権頭と播磨権介を拝命しました。更にその翌年には大炊頭すなわち宮中の宴席を司り、神事仏事の供物を引きうけると言う祭祀にも関わりの深い陰陽師である彼には打ってつけと言うべき職を担うのですが、その拝命に際して職務に堪え得るかは不明であるものの、陰陽道の長であることから任ぜられたと言うエピソードがあります。


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また、時期は不明ではあるものの従五位上、従五位下、主計頭、天文博士などを歴任して職務を全うしており、長保2年(1000年)には弟である光国に暦道を習わせるように命じられ、光栄自身も最終官位・官職が従四位上・右京権大夫を長和2年(1013年)に賜っており、陰陽家・官僚いずれでも高い地位に上り詰めて行きました。

このように光栄は、偉大な父・保憲や先駆者の祖父・忠行のような華々しい活躍こそ少ないものの、代々伝えた家職を守り伝える、言わば陰陽家のサラブレッドと言っても差し支えない人物だったことが伺えます。

血筋こそ途絶えても引き継いだ暦道は滅びず

ここまで紹介してきたのは主に官僚・貴族としての賀茂光栄でしたが、先述したように彼は陰陽師としても優秀な人材であり、父である保憲は自らが守り育ててきた陰陽道を継承していくにあたり、とある決断をします。それは、陰陽道をふたつに分けてしまい、愛息の光栄が暦道を、そして忠行の代から重んじられてきた弟子の安倍晴明が天文道を継ぐと言うものでした。

この継承に関する逸話が『続古事談』に収録されており、晴明は自分が光栄より自分が優位に扱われていたことや百家の書を与えられたことを誇示すると、光栄も負けじと反論して、晴明が愛弟子であろうとも父が自分を憎んだことにならないこと、そして暦道を引き継いだのは自分なのだと述べたとされています。

こうした逸話から光栄は晴明と不仲なイメージが創作などで書かれることが少なからずありますが、史実における二人は一条天皇の蔵人所(皇室の家政機関)で陰陽師を共に務めたり、藤原道長を共同で占うなど、同門で力を合わせていたようです。その晴明が世を去ってから10年後の長和4年(1015年)、光栄は77歳の長寿を保って死去しました。

光栄が父から引き継いで発展させた暦道は賀茂氏の家学として隆盛するものの、時代を追うごとに衰退していき、室町時代から江戸初期にかけて嫡流の勘解由小路(かでのこうじ)家が断絶します。庶流とされる幸徳井(こうとくいけ)家が江戸時代に陰陽頭を拝命しますが、安倍氏の流れをくむ土御門家の支配下におかれ、明治政府から華族への取り立てを却下されて以降、暦道を継ぐ賀茂氏は歴史の表舞台から消え去りました。


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しかし、光栄が守って磨き続けた暦道は明治以降にグレゴリオ暦が導入されてからも占いや冠婚葬祭、年中行事と言った日本文化の中に生き残り、今も私達の生活の中に存在しています。そうした暦による諸々の文化と共に、陰陽師・賀茂光栄の業績はこれからも生き続けていくことでしょう。

参考サイト、文献

続古事談 晴明と光栄の事
平安大辞典 年表その2

(寄稿)太田

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