水野十郎左衛門(水野成之)の解説~大小神祇組の長

水野十郎左衛門(水野成之)

水野十郎左衛門(水野成之)とは

徳川家康が1603年に江戸幕府を開き、江戸時代に入ってすぐの頃は、戦国時代の風潮や名残がありました。中には幕府に仕える旗本の不満が爆発し、徒党を組んで犯罪まがいの行為や女性服を平気で着こなす武士たちが出現。彼らは戦国時代ではかぶき者と呼ばれましたが、江戸時代では旗本奴と呼ばれていました。
そんな今回は、旗本奴組織の1つ大小神祇組(だいしょうじんぎぐみ)をまとめた水野十郎左衛門(じゅうろうざえもん)/ 水野成之をご紹介します。

祖父に水野勝成がいた

水野十郎左衛門は寛永7年(1630)に水野成貞の長男として生まれました。祖父には水野勝成がいます。慶安3年(1650)に父の成貞に伴い跡を継ぎ、3,000石で小普請組に列します。翌年には江戸幕府4代将軍の徳川家綱に謁見しました。


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父親も旗本奴だった

その後、十郎左衛門は旗本奴になっていきます。また、十郎左衛門の父・成貞も江戸時代初期に活動した旗本奴でありました。成貞は奇抜な髪形で髑髏をあしらった着物を身にまとい、徒党を組
んで歩き回っていました。その姿に惚れた萬の方は、成貞と婚姻。やがて2人は、十郎左衛門を生み、萬の方は正徳院となりました。

大小神祇組を率いる

十郎左衛門が組織した大小神祇組は、平安時代に活躍した源頼光四天王にあやかりました。そのため、家臣たちを綱・金時・定光・季武と家老を保昌独武者と命名。奇抜な服装で江戸の町を歩き、暴力や犯罪行為に手を染めました。

また、仲間も増やしていき、かぶき大名と呼ばれた加賀爪直澄(かがつめ-なおずみ)がその中に列します。さらに、旗本という地位を利用したことで、幕府は十郎左衛門たちに対処できずにいました。それに付け込んで、行為も度を越してきます。そのような状況下で十郎左衛門たちは、町人出のかぶき者・町奴と対立していきました。

十郎左衛門の最後

明暦3年(1657)に十郎左衛門は若い者の喧嘩の手打ちを口実に、町奴の大物・幡随院長兵衛(ばんずいいん-ちょうべえ)を殺害します。意外なことに、この件で十郎左衛門は咎がありませんでした。

しかし、寛文4年(1664)3月26日に素行の悪さから母・正徳院の実家である蜂須賀家に弟の水野忠丘(ただおか)とお預け処分となりました。翌日、評定所に赴いた際、武士らしい服装ではなくかぶき者の格好で行ったことで、若年寄の土屋数直は激怒。反省の色なしと判断し、その場で切腹を言い渡しました。


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切腹の際、十郎左衛門は慣習に従わず、膝で刀の切れ味を確かめてから切腹しました。また、十郎左衛門の嫡男・百助も処刑され、水野家は断絶。しかし、元禄元年(1688)に忠丘がお預け処分の許しを貰います。その後、旗本となり、水野家は再興しました。

寄稿(拾丸)

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