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奈多夫人とは
奈多夫人(なだふじん)は、戦国時代の女性で、大友義鎮(大友宗麟)の継室です。
奈多城主でもある八幡奈多宮の大宮司・奈多鑑基の娘ですが、実名や生年は不明となっています。
母は田北親員の娘です。
大友宗麟には正室・一色義清の娘がいましたが、1550年、二階崩れの変のあとに離縁しており、奈多夫人が大友宗麟に嫁いだのは1550年~1551年頃と考えられています。
なお、奈多夫人は1度結婚し、娘も儲けていましたが、夫が亡くなっていたため「再婚」と言う事になり、当時、22歳くらいだった大友宗麟よりも年上であるとされています。
そして、奈多夫人は1558年に大友義統、1561年に大友親家、1567年には大友親盛を産んだ他、娘も4人います。
本源院・ジェスタは、一条兼定の正室になったのち、清田鎮忠と再婚。
久我三休の子である久我中納言の正室となった娘。
マセンシアは小早川秀包の正室。
もう1名は不詳。
※諸説あります。
なお、連れ子である娘は、二階崩れの変に尽力した家臣で豊後・岡城主の志賀親度に嫁ぎ、志賀親次を生んでいます。
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大友宗麟は、家臣の妻でも、美女であると自分の側室にしていた為、一萬田夫人(家臣・一萬田親実の娘?)など7名の側室がおり、奈多夫人は大友宗麟が浮気しないよう、僧侶や山伏らに「薬」を調伏をさせていたとされます。
1564年、奈多夫人の娘と毛利元就の8男・末次元康が婚約しますが、間もなく破談しています。
1575年11月、子の大も親家がキリスト教に入信。
1578年7月に大友宗麟がキリスト教の洗礼を受けると、八幡奈多宮の娘でもあった奈多夫人の信仰と、何度か争うようになりました。
もっとも、キリスト教は大友家の家中に広まっており、奈多夫人は、娘がエステバンというキリシタン少年に対して、仏寺へ護符を取りに行くよう頼んだ際に拒否されると、棄教しなければ死罪にすると、この時、家督を継いでいた長男・大友義統に命じたことがあります。
さすがに、大友宗麟が仲介してキリスト教の少年は無事でしたが、キリスト教と敵対する奈多夫人を、宣教師らは、イスラエル国王のアハブの妃で異教を崇め、預言者エリヤを追放した女性である「イザベル」と呼ぶようになったと言います。
1577年4月、奈多夫人の兄・田原親賢の養子である田原親虎と、奈多夫人の娘の婚約が決まっていましたが、この田原親虎がキリスト教へ入信しようとします。
この時も奈多夫人は、兄・田原親賢と共に、キリスト教になるのであれば、婚約破棄はもちろん廃嫡すると言います。
そして、田原親虎を豊前へと移しましたが、それでも田原親虎が洗礼を受けたため、奈多夫人らは滝ら親虎を拘束して棄教を迫りました。
しかし、奈多夫人の子でキリスト教になっていた大友親家が、田原親虎を励まして、田原親賢を非難します。
結果的に、廃嫡にはなりましたが、大友親家の行動に激怒した奈多夫人は、大友親家と会う事もなくなったと言います。
このように、キリスト教になった大友宗麟との夫婦仲も悪化し、奈多夫人は病となりましたが、宣教師はこれを天罰だと言っていました。
1578年、奈多夫人の侍女頭で、大友親家の妻の母でもある「ジュリア」(夫とは死別)を大友宗麟は側室とし、臼杵城下に屋敷を建てて、大友ジュリアを住まわせます。
そして、大友宗麟は奈多夫人との離縁を考え、ついに奈多夫人と離縁しました。
一方的に離婚された奈多夫人は、絶望のあまり短刀で自殺を計ったされますが、娘や親戚などが警戒して見張っていたため、未遂に終わったようです。
このようにキリスト教を拒絶した奈多夫人ですが、晩年にはキリシタンの侍女がロザリオを忘れたのを見かねて、教会にまで届けさるよう命じたり、イエス・キリストに祈りを捧げるようになったとされます。
そして、侍女らに安息日にあたる日曜日は働かなくて良いとまで配慮したようですが、最後まで神道の道を捨てることはありませんでした。
1587年2月15日、病気の為、奈多夫人は臼杵にて死去しました。
奈多宮(八幡奈多宮)
奈多宮(なだぐう)は、八幡奈多宮(はちまんなだぐう)、奈多八幡宮とも呼ばれる神社です。
宇佐神宮の別宮ともされますが、創建年代は不明です。
室町時代には豊後の守護の大友氏と関係が深く、八幡奈多宮の大宮司・奈多鑑基は大友家の寺社奉行を務めました。
また、奈多鑑基の娘は大友義鎮(大友宗麟)の正室となり、奈多夫人と呼ばれています。
大友義統を産んだのも奈多夫人です。
1596年には、慶長豊後地震で津波が押し寄せ、社殿や古記録などが流出しました。
その後、1627年に小倉城主・細川忠興によって社殿が再建されましたが、現在の本殿は1881年(明治14年)のものとなります。
奈多海岸の沖合約300mにある小さな島「市杵島」は、八幡奈多宮の元宮となり、比売大神が市杵島に降臨したと伝わります。
奈多宮(奈多八幡宮)への行き方・アクセスですが、下記の地図ポイント地点が海岸沿いにある境内駐車場の入口となります。
鳥居前の駐車スペースに止めましたら、海岸の方向(南)へと歩いて行くと、海の沖には市杵島が見えて、その海岸(海)から奈多宮(奈多八幡宮)へ入る参道がある形となっています。
参拝時間の制限はありません。
見学所要時間は10分といったところです。
・大友宗麟(大友義鎮)~国崩し・豊後の王
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