大久保教寛とは
大久保教寛(おおくぼ のりひろ)は、荻野山中藩・大久保家の初代の大名で、相模国愛甲郡中荻野村(現在の神奈川県厚木市下荻野)に「荻野山中陣屋」(荻野山中藩の藩庁)を設けた人物である。
この大久保教寛は、1657年に大久保忠朝(大久保忠隣の孫)の次男として誕生した。
この頃の父・大久保忠朝は3000石で小姓組番頭であったが、1670年に従兄の肥前唐津藩主・大久保忠職の養子となり、家督相続して唐津藩主(83000石)の大名となった。
その後、1677年に幕府老中、1678年には下総佐倉城に国替となり、1680年の時点で93000石、そして1681年に老中首座にまで登り詰めた。
1686年には、相模の小田原藩に国替えとなり、103000石、のち1694年には113000石となった。
一方、荻野山中陣屋を設ける事になった大久保忠朝の次男・大久保教寛は、1692年4月14日には小姓組番頭に任じられ、2000俵取り。
1692年12月18日には、従五位下・長門守に叙任された。
その後、父・大久保忠朝が1698年2月15日に老中を辞職して、隠居。小田原藩の家督を兄の大久保忠増が継ぎだ際、分家として兄から駿河と相模国内に6000石を与えられた。
大久保教寛は、1699年1月11日に書院番頭に任じられ、閏9月28日には側用人。
1706年10月15日には、江戸城西の丸・若年寄に任じられ、駿河富士郡などに5000石が加増され、合計11000石として大名に列し、駿河松長藩主となったが、この頃の陣屋は、駿河国駿東郡松長村(現在の静岡県沼津市)の松長藩内に置いていた。
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1707年11月に富士山が大噴火。小田原藩では足柄上郡と駿東郡が大打撃を受けている。
大久保教寛は1709年1月10日、若年寄に任じられ、1718年3月3日には、相模大住郡などにおいて5000石が加増され、合計16000石。その後、1730年11月27日、家督を長男・大久保教端に譲って隠居した。
荻野山中藩となったのは1783年で、5代目となる駿河・松長藩主・大久保教翅が、陣屋を山中(厚木市)に移転し立藩した。
山中藩では財政が窮乏しており、大久保教翅の子・大久保教孝は「養蚕要略」を公布して養蚕業を奨励。しかし、効果はあまりなかったようだ。
もっとも、駿河から山中に陣屋(本拠地)を移転したのも、参勤交代には江戸に近いと言う事で、費用節約の為だったようだ。
時は幕末となり、徳川慶喜が大政奉還する1867年「荻野山中陣屋 焼討事件」が起こった。
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