諏訪御料人とは
諏訪御料人(すわごりょうにん)は、武田信玄や武田勝頼が登場する小説や時代劇には欠かせない人物である。
実際の名は不詳な為、諏訪の美人な女性と言う意味で、諏訪御料人又は諏訪御前(すわごぜん)とも呼ばれる事が多いが、新田次郎著「武田信玄」では湖衣姫(こいひめ)、井上靖著「風林火山」では由布姫(ゆうひめ)と想像上の名で書かれている。
作者が大分県の由布院(現在の湯布院)で由布岳を見ながら執筆した為と言われている。
諏訪御料人は信濃国・諏訪頼重(すわよりしげ)と側室になっていた小笠原長時の家臣・小見(麻績)氏のとの間にできた娘である。
諏訪氏の滅亡
武田信虎は信濃進出の為、まず敵対関係にあった諏訪氏と和睦し、その後更に関係を強化する為、1540年11月に武田信虎の三女(武田信玄の妹)・禰々(1528年~1543年1月19日)を諏訪頼重の正室に送り、武田家と諏訪家は姻戚関係となった。
この時、禰々は僅か12歳、諏訪頼重は24歳である。
しかし、1541年6月、武田信虎が息子の武田晴信(のちの武田信玄)に追放され、武田晴信が武田家当主となると、諏訪を完全に武田のものにする為、1542年6月、武田晴信は諏訪分家の高遠頼継や諏訪下社の金刺氏と手を結び、諏訪領へ進行する。
諏訪氏は、ただの大名ではなく諏訪大社の大祝(おおほうり)職を世襲=「生き神様」になる権利を有していたことなどに目をつけたものと考えられる。
上原城は自落し、諏訪頼重は桑原城に立て篭もるが、1542年7月5日、助命を条件に武田に降伏。弟の大祝(おおほうり)・諏訪頼高と共に甲斐に連行され、東光寺に幽閉された。
しかし、諏訪頼重と諏訪頼高は1542年7月21日、自刃させられ、諏訪惣領家は滅亡。諏訪大社の大祝職には、武田に通じていたとされる叔父の諏訪満隣が継承した。
諏訪頼重の正室禰々は甲府に戻ったもの、病に倒れ翌年1543年1月19日死亡、僅か16歳である。
禰々は寅王と言う諏訪の男児を産んでいた。
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安国寺の戦い(安国寺合戦)と寅王
武田の諏訪攻めに協力した高遠頼継だったが、諏訪領の正統の後継者であると自負するあまり、武田を裏切り1542年9月10日挙兵し、伊那の福与城城主・藤原頼親を後ろ楯に干沢城に入って、武田が守る諏訪・上原城を急襲。
そして、諏訪上社、諏訪下社を占領し、諏訪の地を確保した。
まだ22歳と若き武田晴信(のちの武田信玄)は、すぐさま諏訪氏の遺児・寅王丸をたて、板垣信方らが出陣。武田勢は諏訪領有権の正当性をアピールし、諏訪の有力者は武田についた。
そして、9月25日に安国寺の戦いとなる。
6時間の激戦で合ったとも言われ、高遠頼継の弟・高遠頼宗が討死するなど、高遠勢は死者700名以上となり、杖突峠を越えて高遠に敗走。
武田勢は死者50名ほどと、高遠勢に圧勝し、武田晴信は諏訪を取り戻した。
しかし、その後、寅王の名が歴史に出てくることはなく、病死したのか仏門に入ったのか、あるいは殺害されたのか? 消息は不明。
諏訪御料人(湖衣姫・由布姫)の輿入れ
そんな諏訪頼重の側室・小見氏の娘(実名不明)が生んだ娘に、諏訪御料人(湖衣姫・由布姫)がおり、武田晴信が諏訪を攻めた際、13歳前後だった諏訪御料人が、年代は不明だがのち武田晴信の側室となった。
諏訪頼重に禰々が嫁いだ際に、当時9歳だった諏訪御料人(湖衣姫・由布姫)を人質として、武田信虎が1541年前後に甲府に呼んだと言う説もあるが、確かな事はわからない。
16歳前後と考えられる1546年に武田勝頼が生まれているので、1542年~1545年頃までに武田晴信の側室になったのであろう。
敵大名の娘が仇とも言える武田晴信の側室になった経緯には山本勘助らの尽力もあったと小説などでは紹介されているが、なにしろ本当の名もわからない姫であり、実際そうであったかどうかはわからないことが多い。
「高白斎記」には、1542年に武田信玄の側室が禰津から来て祝言をあげたと記載されている。こちらも実名は不明だが、禰津から来たと言うことで「禰津御寮人」と呼ばれている。
その禰津御寮人こそが、諏訪御寮人で、敵将の娘では体裁が悪いため、諏訪一族で、武田氏とも親戚関係にあった禰津元直の元に、小見氏と諏訪の姫は預けらた、又は一旦養女となって、名門・禰津家の娘として甲府に来たのではないかと言う有力な説もある。
いずれにしても、諏訪御料人は美女であったとされ、武田晴信最愛の妻とも言われているが、どのような人物であったかの具体的な記録は全く残っていない。
しかし、小説やドラマではその辺り興味を引くように創作されており、ドラマや小説上のイメージや物語はあくまでも空想の世界であることを知って頂きたい。
薄幸の女性としても知られ、子が1人しかなかったように体が丈夫ではなかったのか、25歳前後で死去。
没年は1554年とも1555年とも言われている。
墓所は武田勝頼が高遠城主になった際に作った、長野県伊那市高遠町の建福寺。
※小坂観音院(長野県岡谷市)にある墓は、現代になってから建てられた墓である。
武田勝頼の名には、諏訪家の通字「頼」を名乗らせている事から、武田信玄は武田勝頼に諏訪大社を預る諏訪家の血を継ぐ者として、諏訪家を相続させるつもりだったのは明らかである。
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