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藤原隆家(ふじわら-の-たかいえ)は、今からおよそ千年前の平安時代中期、摂関政治で有名な藤原道長の甥にあたる公卿です。
平安時代と言うと、貴族たちが和歌を詠みながらのほほんと暮らしている姿を想像しがちですが、その中でも異彩を放つ武闘派として知られているのが、今回ご紹介する藤原隆家です。
そんな隆家が大活躍したのが「刀伊の入寇」と言われる出来事です。
今回は、藤原隆家の活躍と刀伊の入寇(といのにゅうこう)についてお伝えしていきます。
なお、2024年NHK大河ドラマ「光る君へ」では、藤原隆家を俳優の永山絢斗さんが演じる予定でしたが、大麻取締法違反の容疑で逮捕されため、代役がたてられることになりました。
藤原隆家のプロフィール
まずは、藤原隆家の簡単な人物紹介です。
隆家は天元二年(979年)に、当時関白であった藤原道隆という人物の四男として生を受けました。
藤原道隆は、藤原道長の兄にあたる人物です。
また、姉に藤原定子という人物がいます。
この定子は、枕草子の執筆者として著名な清少納言が仕えていた女性です。
ゆえに、枕草子の中にも、若かりし頃の隆家が度々登場しています。
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長徳元年(995年)隆家17歳の頃には中納言という高い位を手に入れるなど、藤原一族の名に恥じぬ雅な人生が約束されていました。
一方で、相当なやんちゃ坊主としてもかなり名を馳せていたようです。
今で言うところの高校生くらいの多感な年ごろですから、ちょっとした不良のような存在だったのかもしれません。
その翌年の長徳二年(996年)、隆家と兄の伊周(これちか)の従者が、花山法皇に矢を射かけるという事件が起こりました。
この罪を問われ、藤原隆家は出雲(島根県)に左遷されてしまいました。
なお、この事件を「長徳の変」と言います。
前年に藤原道隆(藤原隆家の父)が亡くなり、その弟 藤原道長と、藤原隆家の兄 伊周の間に起こった後継者争いが背景にあります。
しかし、翌年の長徳三年(997年)には、どうにか京都に復帰し、藤原一族の一人として政務に復帰しています。
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そして時は流れ長和元年(1012年)、隆家は眼病を患いその治療のために、名医がいると噂の九州へ赴くことになります。
この隆家が九州に滞在している時に、刀伊の入寇が起こります。
刀伊の入寇
寛仁3年(1019年)、いわゆる「刀伊(とい)」と呼ばれる集団が、壱岐・対馬を強襲し、筑前国(現在の福岡県西部)に侵攻してくるという事件が勃発しました。
なお、「刀伊」とは、女真族(満州族)という、現在のチャイナ北東部より発祥した民族とされています。
この女真族 約三千人が九州を襲った事件、それが「刀伊の入寇」です。
刀伊の襲撃により、壱岐・対馬で暮らしていた民衆約四百人が犠牲となり、さらに千数百人が奴隷として拉致されました。
これより、壱岐・対馬にはほとんど人がいなくなったと言われています。
そして、刀伊の進撃は留まるところを知らず、九州本土への上陸を目指しついに博多湾への侵入を開始しました。
この刀伊に対し徹底抗戦を挑んだのが、藤原隆家でした。
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この時、藤原隆家は九州を治める役職(大宰権帥)になっていたため、京都にある朝廷からの指示を待たずして、独断で刀伊の襲撃に対応します。
藤原隆家は九州の武士団や海賊衆を緊急招集し、刀伊の襲撃に徹底抗戦を挑みました。
日本軍には大蔵種材(おおくらのたねき)という齢70を超える老将も参戦しており、藤原隆家とともに軍を指揮し、大奮戦したと伝わっています。
当時の70歳と言ったら、現在の90~100歳くらいの感覚でしょう。
そういった人物が動員されるほど鬼気迫る状況だったのです。
このような藤原隆家や大蔵種材らの防戦により、刀伊はついに撤退、日本軍は勝利しました。
刀伊の入寇後の出来事
こうして、藤原隆家という武闘派がたまたま九州にいたため、なんとか国難を乗り切ることができました。
しかし、隆家の活躍に対する朝廷の反応は二極化します。
ひとつは『今回の件は、朝廷からの支持を待たず隆家が独断で行ったことであり、恩賞は不要である』という意見。
ひとつは『今回の犠牲者は凄まじい数にのぼり、それを撃退した隆家に恩賞を与えなければ、二度と戦う者が現れなくなる』という意見でした。
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ちなみに、前者の意見だったのが藤原公任という有名な歌人。
後者の意見が藤原実資という人物でした。
結局は後者の意見が採用され、隆家や現地の武士団には恩賞が与えらることとなりました。
上からの指示を待つべきかとうか?この判断は現在でも、仕事などで直面することが多いのではないでしょうか。
ともかくも、平安貴族が呑気にしていた印象の強い平安時代中期に、外敵の襲来を受けた日本。
歴史に「もし」は禁物ですが、この時に藤原隆家という武闘派が九州に赴任していなかったら、被害はもっと拡大していたかもしれません。
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刀伊の入寇とは、規模は違えど後の元寇(蒙古襲来)とさして変わらぬ国難であり、それを撃退した藤原隆家は、もっと評価されて良い人物を言えるのではないでしょうか。
(寄稿)拓麻呂
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