冷泉隆豊(れいぜいたかとよ)は、周防国(山口県)の戦国武将です。1513年の誕生ですので、日本全国で下剋上の足音が大きくなりつつある時期に生まれました。
冷泉氏と聞くと真っ先に藤原定家の末裔である上冷泉家や下冷泉家といった公家を想像してしまいますが、隆豊の冷泉氏は周防大内氏の分家にあたる一族ですので、公家の一族ではなく、隆豊は周防大内氏の親戚筋にあたります。
隆豊誕生時の中国地方は周防大内氏(大内氏は全国に散在するのでここでは周防をつけています)が最大の勢力を誇っていました。周防大内家当主の義興は文武に優れ、中国地方はおろか北九州地方にまで勢力を拡大するとともに、山口の地を「西の小京都」と言われるまでに発展させました。義興の後を継いだ義隆は明との交易によって莫大な富を得、さらにキリスト教を庇護することで領内に山口文化が生まれ、文化的な発展を遂げました。
親戚筋にあたる隆豊は義隆の信頼が非常に厚く、安芸国(広島県)の拠点である佐東銀山城主となります。佐東銀山城は近くにある武田山から金銀が産出されることからこの名がつけられたと言われ、さらに位置的に山陽道と瀬戸内海に面していることから経済・流通上の重要拠点でもあることから、隆豊が城主として置かれたのは妥当と言えます。
また隆豊は安芸国の仁保島や伊予海域の攻略のために水軍を率いて戦っています。また1542年の周防大内氏による出雲遠征においても出雲国(島根県)の大根島を攻略するために水軍を率いており、ポジションとしては周防大内水軍の要であったと言えそうです。さらに周防大内氏と対立していた能島村上氏に周防国沿岸部での海賊行為をやめるよう要請していたとの記録もあり、海賊衆との調整役としても活躍していました。
順風満帆であった周防大内氏ですが、出雲遠征の手痛い敗戦を境に雲行きが怪しくなります。嫡男・晴持を亡くして意気消沈した義隆はこれ以降、自ら戦場に出ることなく政治的な関心もすっかり薄れてしまいました。隆豊は堕落した義隆に幾度となく諫言しましたが、一向に聞き入られることなく、さらに周防大内氏の重臣である文治派の相良武任と武断派の陶隆房(のちの陶晴賢)の対立が深まるとその折衝役として家中が分裂しないように奔走するなど苦悩の日々を送りました。
堕落した義隆に愛想をつかした隆房は豊後国(大分県)の大友氏から晴英を迎えるとともに、義隆を討つ決意を固めます。いち早く隆房の叛意に気づいた隆豊は義隆に隆房を討つよう進言しますが、義隆は隆房に全幅の信頼を置いていたために一向に聞き入れられませんでした。
隆房は居城の富田若山城に戻り、義隆を討つために3,000人の兵を率いて周防の大内館に進軍します。義隆方の兵は10,000人程度いたようですが、陶軍に寝返る家臣が跡を絶たず大内軍は離散し、義隆は子の義尊、隆豊ら数十人の家臣とともに海路脱出を図るべく長門国(山口県)まで撤退しました。しかし時の運むなしく、海路は嵐によって船を出すことができず、周防大内家の菩提寺である大寧寺に逃れました。
そして寺の住職から戒名を授かった義隆はこの地で自刃します。隆豊は自刃する義隆の邪魔をさせまいと、わずかな供とともに大寧寺に迫る陶軍に対して頑強に抵抗します。陶軍は隆豊の意を汲み、一時軍を引いたと言われています。
義隆の介錯を終えると、隆豊は陶軍との最終決戦に及び、やがて寺内の経蔵で自刃します。その姿は腹を十文字に掻き切り、腸をつかみ出して投げつけるという壮絶なものであったとのことです。享年39歳。
隆豊の辞世の句です。
みよや立つ 雲も煙も中空に さそいし風のすえものこらず
「すえものこらず」というところが隆豊の隆房への憎しみを想像させます。
「すえ」は隆房の苗字の「陶」、「のこらず」は残らない、すなわち滅亡を意味するものと想定します。辞世の句に込められた隆豊の思いは、わずか4年後の厳島の戦いによって晴らされることになりました。
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隆豊が自刃したと言われている経蔵跡は現在の大寧寺内で目につくように案内板が立っており、すぐに見つけることができます。経蔵跡付近には義隆に最後まで忠義を貫いた家臣の墓がひっそりと参拝客を見守っています。
(寄稿)ぐんしげ
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