寺沢広政とは~虹の松原も望める唐津城の観光や駐車場情報など

寺沢広政(てらざわ-ひろまさ)は、1525年に生まれた美濃出身の豪族で、寺澤広政、寺沢広正、寺沢藤左衛門とも言う。
犬山城主・織田信清の家老で、於久地城主・中島豊後守の家来であったようだ。
桶狭間の戦いのあと、織田信長と織田信清が、追放した織田信賢の旧領地を巡って争いとなる。
1562年に織田信清が反旗を翻し楽田城を奪うと、攻勢に出た織田信長と寺沢広政も槍を合わせたようだ。

中島豊後守は丹羽長秀を通じて織田信長に降伏しているため、同じく寺沢広政も下ったと考えられ、1564年5月に犬山城が陥落すると織田信清は甲斐の武田信玄を頼って逃亡した。


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なお、1563年には寺沢広政の子として寺沢広高(てらざわ-ひろたか)が、尾張・中村にて誕生したようなので、同じ中村の出である木下藤吉郎とは、少なくとも面識があったものと推定され、織田信長の命にて木下藤吉郎の与力として組み込まれていた可能性もある。

1573年の伊勢一向一揆攻めでは、木下藤吉郎(豊臣秀吉)が蜂須賀小六と、寺沢広政を集めて戦略を練ったともされている。

1576年、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が長浜城主となると、寺沢広政も与力として派遣され、羽柴勢の兵站(物資の輸送)などを寺沢広政が担当したようである。
このように奉行を主に努めた寺沢広政であるため、華々しい戦功の話は乏しく、のち城持ちにまで出世する寺沢広政であるが、余り名は知られていない。

毛利攻めの際にも、寺沢広政は播磨にて黒田官兵衛らと職務を遂行したようで、中国大返しの際に、寺沢広政は姫路留守居役とし播磨に残って残務と毛利家への備えを任された。
1582年8月14日には、播磨伊保庄に所領を与えられている。

その後、石田三成などの台頭で、羽柴家の奉行職は若手に譲る形となるが、京都での大仏殿建造に携わったり、行幸の際には豊臣秀吉の前駆衆を務めたりし、豊臣秀吉は寺沢越中守広政を「日本一の奉行」と賞賛したとある。

1587年、九州攻めのあとには、薩摩・出水郡など2万石を拝領した。

1595年頃までには既に寺沢広政は隠居していたようである。
波多親(波多三河守親)が改易になると唐津城に入ったようだが、1596年1月14日に没した。享年72。

家督は子の寺沢広高(寺沢志摩守広高)が継いでいる。

唐津城

さて、寺沢広政や寺沢広高が改修した、唐津城も今回訪れたので、効率が良い観光方法などを記載しておきたい。
まず、駐車場だが、下記の地図ポイント地点に170台と大きな有料駐車場がある。
1時間まで100円、3時間まで300円で、朝9時から入れる。

福岡空港からレンタカーで高速を利用し約60分。
地図は例によって縮尺を変えてご覧願いたい。
駐車場からは下記のように天守が良く見える。

唐津城

駐車場から地下通路を渡ると、唐津城へ登る「階段」が見える。

唐津城の登城口

しかし、階段は登らずに、山の左側の道をずっと奥まで進んで頂きたい。
すると「舞鶴公園エレベーター」があるので、その地下エレベーター(斜坑式)で本丸(標高43m)に登る事ができるので、当然のように利用する。

唐津城の案内図

訪問時点で片道大人100円、小学生・中学生は片道50円。
お年寄りなど階段が苦手な方は、往復エレベーターの利用も可能。
下記は本丸から西ノ浜を望む写真。

唐津・西の浜

唐津城(からつじょう)は寺沢広高が存命だったころからあったようたが、本格的な城に改修したのは1602年からで、子の寺沢広高の頃となる。

唐津城

連郭式平山城へと変貌し、1608年に完成をみた。
天守は天守台まで建築するも、建物は建てられなかった模様であるが、現在の天守は複合式望楼型5層5階地下1階の模擬天守となる。

唐津城

天守の内部は有料拝観が可能で、階によっては写真撮影も許可されている。
※階により写真撮影禁止。

唐津城

展示物は土地柄、唐津焼の茶器などが多かったが、下記のような大砲もあった。
なお、館内には冷暖房が無いので、この梅雨の時期、汗だくになってしまった。

唐津城の大砲

下記は天守の最上階より「虹の松原」を撮影したもの。

虹の松原

下記写真は左が虹の松原で、右の大きな川は「松浦川」となるが、ご覧のように雨の影響で川の水は濁っていた。

虹の松原と松浦川

唐津市内は下記のような感じで、左に観光用の有料駐車場が写っている。

唐津市内

下記は唐津港で沖には島もある。

唐津港

石垣は修復のため絶賛工事中であったが、このように文化財が保存されて行くのは非常にうれしく感じる。
ちなみに、唐津城の石垣工事が終わるのは、平成30年3月20日の予定とあるので、これだけの修復でも4~5年要すると言う事である。
大きく被災した熊本城の石垣は本当に30年間くらいは掛かるかも知れない。
しかし、昔の人々は、こんなのをよく、たった数年で完成させたものだ。

唐津城の石垣工事

下記は唐津城の井戸。

唐津城の井戸

さて、天守を見たあと、道なりに進んでいくと、駐車場方面に階段で降りて行くことができる。
※写真は振り返って撮影していますが・・。

唐津城の石垣

しかし、石垣も見事で素晴らしい。
なお、幕末の唐津藩主としては水野忠邦がいる。

唐津城の石垣

唐津城の観光所要時間は私のこのルートで約50分であった。
標準は60分との事。

唐津城の石垣

寺沢広政の子・寺沢広高(寺沢志摩守広高)は、関ヶ原の戦いにも参加しており話題が満載である為、是非、引き続きご覧願いたい。

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