お鮮は宇喜多直家の継室。1549年に生まれた。
出自は、鷹取氏又は三浦氏の娘と考えられる。
名前は「お鮮」「お福(ふく)」「太万」など諸説あるが、院号は円融院(えんゆういん)。
お鮮の名は、銘五輪塔の法名「法鮮」からの連想。
ふくの名は、1593年、朝鮮へ出陣した宇喜多秀家の釜山帰陣を報告した、豊臣秀吉書状(葉上文書)の宛名が「ふく」であることが根拠であるが、そのふくが、宇喜多直家の継室にあたるのかの確証はない。
太万の名は、貴人の母の尊称である「大方」の誤記から生じたものと考えられている。
よって、正式な名は不明といったところだが、ここでは「お鮮」としてご紹介する。
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お鮮は。1559年ごろに美作高田城主・三浦貞勝に嫁いだ。
1565年に夫・三浦貞勝が三村家親に攻められ22歳で自刃。生まれたいた嫡子・桃寿丸と共に備前国に逃れた
一説には、備中にて隠れていたともされるが、のち備前沼城主・宇喜多直家(41歳)とお鮮(23歳)は再婚し、三浦桃寿丸も宇喜多家が養育した。
継室ではなく、側室であったが寵愛を受けて正室と同じ待遇だったとも考えられる。
1572年、宇喜多直家とお鮮の間に、宇喜多秀家が誕生。
1581年の末頃に、宇喜多直家が岡山城で病死。享年53。
宇喜多直家が亡くなる前後に、宇喜多家を調略した羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の側室になったと言う話もあるが、不明な部分が多い。
羽柴秀吉の側室になったと言う話を肯定すると、32歳前後だったお鮮は「おふく」(お福)と名を改めたとされる。
まだ、家督を継いだ宇喜多秀家が11歳と幼かった事から、宇喜多家の存亡を危惧した、おふくの方から羽柴秀吉に接近したとも伝わり「岡山城の女城主」とも称された。
中国大返しの際にも、羽柴秀吉はわざわざ岡山城に1泊している。
1582年、三浦桃寿丸と宇喜多秀家が、羽柴秀吉に拝謁したとされるが、1582年1月に、おふくと宇喜多秀家が、羽柴秀吉に伴われて織田信長に謁見したとも?
三浦桃寿丸は宇喜多家勝と名乗ったのではないかという説もあるが、その後、京都に上ったようで、1584年に地震に遭い圧死。享年は23と伝えられている。
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お鮮(お福)の没年は、1594年とする説もあるが、現存する自筆書状が1600年以降のもだとする説もあり、不明である。
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