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徳川頼宣(とくがわ-よりのぶ)、徳川御三家の一つ、紀州徳川家。
紀州徳川家は徳川家の由緒ある分家の他に徳川吉宗や徳川家茂という危機的な状況にあった江戸幕府を立て直すことに尽力した傑物たちが排出される名家の側面を持っています。
しかし、紀州徳川家で目立つのはその2人で紀州徳川家を興した祖の徳川頼宣に目がいっていないのは何だか物悲しく感じます。
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そこで今回は紀州徳川家の祖である頼宣の生涯を紹介します。
父に大切された幼少期
頼宣は慶長7年(1602年)に伏見城で生まれます。
徳川家康の10男として生まれた頼宣は幼名を長副丸といい、慶長8年(1603)の2歳にして水戸藩20万石を与えられました。
実際には水戸藩には行かず、家康の元で育てられました。
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家康は頼宣に目をかけていたらしく幼いながらも馬に乗せ、小川を飛び越えるよう指示しました。
それで小川に落ちた際に家康は助けず、自ら泳いで陸に上がってくるよう教育しました。
老年の家康は頼宣にかなりの期待をかけ、武将さながらのスパルタ教育を施したと考えられます。
それを裏付けるように頼宣の初陣となる慶長19年(1614年)に起きた大坂の陣の際には家康自らが鎧初めを行うといった他の兄弟たちと違い、優遇されていました。
さらに大阪の陣で先陣を希望し、却下されると家臣からまだ機会はあると言われ、その時に「14歳は2回あるか」と涙を流しながら訴えたことが家康の目に止まり、「その一言が手柄」と頼宣を褒めたたえています。
このように家康にとって頼宣は老後最も気に掛けた息子であることがわかります。
紀州徳川家の祖として
家康の死後は兄、徳川秀忠の命を受け元和5年(1619)に紀伊国和歌山に55万石5千石の転封となります。
転封の理由は秀忠が京都、大坂の重要な通路である紀州を信頼ある身内、頼宣に任せたいと考えていたからです。
転封により紀州徳川家の祖となった頼宣は藩祖の名に恥じないように和歌山城の改築や城下町の整備を行い、繁栄の基礎を築くとともに浪人問題にも真摯に向き合い数々の対策を行います。
ちなみに和歌山県を代表する果物「みかん」は頼宣によって全国生産量1位になっています。
みかんの味に感動した頼宣はみかんを江戸に普及させ、今や全国各地で和歌山のみかんを食べられるようになっています。
覇気に満ちあふれた晩年
藩政も順当にいっている中、慶安4年(1651)に由井正雪の乱が起こります。
頼宣は事件に関係ないかと思いきや、正雪が頼宣の判子が押された文書を持っていたので幕府から疑われてしまいます。
しかし、頼宣は文書を見るや「自分の名前を使うとはめでたいことだ」と言いのけました。
これは徳川の血縁者が謀反を起こすことはしないという意味であり、この発言により10年の江戸での拘束から解かれ紀州に戻ります。
しかし、泰平の世に似つかわしくない戦国武将のような頼宣の気質は時代が古く、幕府から煙たがれていました。
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その後は何もなく暮らし寛文7年(1667)に嫡男の徳川光貞に家督を譲り、寛文11年(1671)に70歳で覇気に富んだ人生に幕を閉じました。
寄稿(拾丸)
・三河の硬骨な教育者 安藤直次
・和歌山城 紀州藩の大城郭で麗しき日本100名城
・神官+武士=金刺盛澄 (諏訪盛澄)
・小牧・長久手の戦いと池田恒興~長久手古戦場
・森長可~武勇から「鬼武蔵」と称され槍術が得意だった武将
・成瀬正一と成瀬正成~意外性もあった徳川家の家臣とその功績
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コメント
コメント ( 2 )
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取り上げて下さり感謝します。紀伊徳川家初代の頼宣公は藩祖として、紀州和歌山に多くのものをもたらした偉人であり、その点は深く理解しております。
が、残念ながら知名度は低く、地元でも人気があるとは言えません。紀州の人間は閉鎖的で、地元生まれの土豪に愛着が強すぎて、よそ者を評価したがらない傾向にあり、県民として恥ずかしい次第です。
しかし、今年は「徳川頼宣入国400年」の節目という事で、この和歌山市ではちょこちょこスポットが当たりました。頼宣公の歴史的功績についても、巷間で少しは理解されたものと思います。
今後も県内外を問わず、一人でも多くの人に頼宣公を知って頂きたく、また応援してほしいと願っております。ありがとうございました。
和佐佑紀さま、コメントを賜りまして、御礼を申し上げます。
徳川頼宣公は、御三家・紀州の藩祖であり、少なくとも和歌山の発展にも貢献しているものと存じます。
雑賀衆も含めて、和歌山の皆様はもっと自信を持って、アピールして頂けると良いのではと存じております。(^-^)