寛朝僧正の解説~多才を誇った平安中期の高僧~

太田先生

法皇と最高権力者を祖父に持つ真言僧

祈願や呪詛が流布していた平安時代中期を描いた大河ドラマ『光る君へ』に登場する術者と言えば陰陽師・安倍晴明が著名ですが、同時期の仏教界にも晴明に負けない活躍をした僧侶がいます。その僧が本項の主人公・寛朝(かんちょう、もしくはかんじょう)です。

この寛朝は宇多天皇の皇子・敦実親王が当代きっての権力者であった藤原時平の娘をめとって儲けた子として延喜16年(916年)に生まれており、血縁者も父方の伯父に醍醐天皇、母方の祖父には藤原時平と言う高貴な血筋の生まれでした。しかし、その本名や幼名ははっきりしておらず、延長4年(926年)に祖父である宇多法皇のもとで出家しています。

天慶3年(940年)に平将門が反乱を起こした時、若き日の寛朝は自らが関東に出向いて調伏のために祈祷を行い、その際に祈祷した不動明王をご本尊として祀ったのが成田山新勝寺の始まりとされています。

家柄のみが取り柄にあらず!多分野で活躍する寛朝

天暦2年(948年)、この時すでに崩御していた祖父の法皇に仕えていた高僧・寛空による灌頂を受けた寛朝は、康保4年(967年)に宇多天皇が創立した仁和寺の別当になります。彼が“出世街道”を邁進したのは貞元2年(977年)のことで、

同年6月に権律師
10月に権少僧都、法務
11月に東寺三長者と西寺別当

更には広沢房が御願寺(高貴な人の発願で建立された寺院)になった時には別当になり、年に六度の賀ありと言われました。こうした栄達は寛朝の高貴な出自のみならず、密教に精通していた彼の実績は、花も実もある高僧と呼んで然るべきものでした。また、寛朝は密教の経典である『理趣経』を読誦するにあたっての音調を整備しており、声明(文法学ないしは仏教音楽)にも詳しく、舞楽・管弦にも優れた文化人であったとも言われています。

寛和2年(986年)には真言宗初の大僧正に任ぜられ、3年後には円融天皇の命で広沢湖畔に遍照寺を建立して同寺の住持を務めました。長徳4年(998年)、寛朝は80年を超す長命を保って逝去し、遍照寺山(京都市右京区)に墓地がつくられました。

説話の世界でも大活躍の寛朝僧正

これまで紹介したのは、史実における寛朝の事跡です。彼は『今昔物語』『宇治拾遺物語』などの説話の世界でもその名を刻んでいます。前述したように遍照寺の住持でもあったため、寛朝は“広沢僧正”“遍照寺僧正”の別名でも呼ばれており、この遍照寺は公達におだてられた安倍晴明が呪術でカエルを呪殺したとする伝説の舞台としても有名です。

何と言っても寛朝の名を不滅のものとしたのが、怪力を駆使して夜盗を懲らしめたとされる逸話です。とある夕暮れ時、仁和寺で行われた改修工事の進捗を確認しに来た寛朝の前に抜刀した盗賊が現れ、彼の前に立ちふさがります。
「拙者は落ちぶれたものであります。寒さをしのぐため、貴男のお召し物を頂きとうございまする」
「なあんだ。それくらい、容易いことだよ…しかし君、こうした時は脅すのではなく欲しいとおっしゃい。なんて怪しからん男だろう」
そう言うと寛朝は、なんと賊の尻を蹴ってはるか上の足場まで吹っ飛ばしてしまったのです。知らせを受けて飛び出してきた寺の一同の慌てぶりをよそに、寛朝は落ち着いて事の次第を説明して皆を指揮し、足場に蹴り込まれて身動きのできない犯人を難なく捕らえます。そして、
「年寄りの坊主だからと侮ってはいけないのに、こんな悪さをしたのではろくな目に遭いませんぞ。これからは、このようなことをしてはなりませんよ」
と訓諭し、そして賊の男が欲しがっていた防寒の衣服―綿入れの着物を脱いで持たせてやり、刑罰はおろか役所への引き渡しすらしないと言う寛大な処置を施して身柄を解放したのでした。

自らの出自である皇室ゆかりの寺院に奉職する僧侶にして当代屈指の学僧にして文化人、説話の世界では怪力と情け深さを兼ね備えたヒーローとして、寛朝僧正の事跡は様々な形で今も語り継がれています。

(寄稿)太田

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