
藤原陳忠とは
本項の主人公である藤原陳忠(ふじわらののぶただ)は、父を藤原元方、母を橘良殖の娘に持つ藤原南家巨勢麻呂流の貴族です。父の元方は記録に残っているだけでも10人の子に恵まれた子沢山であり、中でも著名な一族としては腹違いの兄弟にあたる致忠の息子、すなわち甥がハンサムで才に長けた逸材として名高い藤原保昌、姪には源満仲の妻がいます。
多くの官僚を輩出した一族に生まれ育っただけあって陳忠も中央政界、地方の行政官を問わず活躍しており、康保元年(964年)に左衛門権佐として大内裏を守護する武官になったのを皮切りに、康保4年(967年)には和泉守、翌年には左少弁に任ぜられて文官としての職務に従事します。
名高い貴族の家柄に相応しく順当に官僚を歴任していた陳忠でしたが、円融天皇の御代にあたる天元5年(982年)に信濃守として任地に向かいました。その地で、彼の名が歴史に残る事件が勃発するのです。
受領は倒る所に土をつかめ
ここからは史実における藤原陳忠ではなく、『今昔物語』での彼が活躍したエピソードを紹介していきます。陳忠は信濃守の任期を終えて帰京の途に就くのですが、信濃と美濃の国境にある神坂峠に差し掛かった折に乗っていた馬もろともに桟道を踏み外して転落してしまいました。
随行していた人々が慌てふためき、困惑していると谷底から、旅籠(はたご。旅に用いるかご)を降ろすようにと叫ぶ陳忠の声がします。家来達は言われたとおりに旅籠を降ろすと妙に軽く、引き上げ終わった旅籠の中には山盛りのヒラタケが入っているのです。皆が顔を見合わせていると、もう一度旅籠を降ろしてくれと陳忠の声がするので、指示に従ってかごを引き上げてみると、今度はずっしりと手応えがあって中には片手で綱を掴んだ陳忠がもう片方の手でヒラタケを持った姿で乗っていました。
実は墜落した際に陳忠は馬こそ失ったものの木の枝につかまって助かり、大きな木の股で落ち着いていたところにヒラタケの群生地を見つけ、採れるだけ採って登って来たのです。しかし、陳忠はそんな災難にあったにもかかわらず、
「まだ盗り残したヒラタケがあったのだ。まったく損をしたものだよ」
と悔しげに嘆きの言葉を口にします。それを聞いた家来達が苦笑していると、
「お前達、心得違いなことを言うでないぞ。私は宝の山に入って手ぶらで帰ってきた思いをしているのだ。“受領は倒る所に土をつかめ”と申すでは無いか」
と彼らをたしなめたのでした。
転んでもただは起きない主人の強欲さには、配下の老練な家臣(文中では目代と表記)も内心ではあきれ果て、
「いやはや、まったくもって仰る通りですじゃ。手近にあるものを取るのに、何の遠慮がありましょうや。賢い御仁なればこそ、死を前にしても冷静になってヒラタケをお取りになったのでしょう」
「だからこそ、ご主人様は領国を治める際にも思い通りに徴税して帰京なさるのですから、領民どもは貴男を親のごとくお慕いしているのではござらぬか。さすれば、行く末もめでたいことでしょうな」
と、お世辞とも皮肉ともつかない賞賛の言葉をかけてただ畏まり、陰では仲間内で笑いあっていたということです。この説話に対しても『今昔物語』の作者はその強欲を批判し、在任中に税を取れるだけ取ったであろうと呆れ気味に記して締めくくっています。
死後にこそ輝いた強欲伝説
その後、陳忠がどうなったか詳しい記録は残っていませんが、長保5年(1003年)11月以前に没していたと言われています。しかし、陳忠の伝説は死してなおどころか、死後になってこそ輝いたと言っても過言ではありませんでした。『今昔物語』が普及するにつれてその滑稽味を帯びた強欲さは古典や日本史の教材、そして児童書などで広く知れ渡ったばかりか、彼がヒラタケ採りに精を出した神坂峠の近くにある長野県阿智村には、“藤原陳忠碑”が建立されています。
死後までも笑われるなど不名誉、恥辱だと言われかねないことですがリアリストの陳忠ならば、
「私のことで出版社や観光地が栄えるのならば、それも良かろう。しかし、一体いくら儲かるんだろうな」
と勘定するのではないかと筆者の所感を記し、筆を置かせていただきます。
(寄稿)太田
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