金子泰清(かねこやすきよ)の官途は美濃守、通称は新左衛門。
金子家清と同一人物の可能性が高いが、もしかしたら、金子家清は子なのかも知れない。
金子泰清の生没年は不明であるが、利根郡追貝村(沼田市利根町追貝)の名主であったとされ、妹(又は娘)が沼田顕泰が寵愛した側室となると、沼田家の家臣に加わったようで、沼田景義の伯父(又は祖父)とも言われる。
金子泰清は権謀術数に優れ、内政・外交面で活躍し、沼田氏の家老なると、末子であった甥(又は孫)の沼田景義を沼田家の後継にするため、反対派を追放し、正当な後継者であった弥七郎朝憲を謀殺したとされる。
1569年、沼田家が内紛となると、沼田顕泰・沼田景義が会津の蘆名家の下へ逃亡したため、金子泰清は上杉謙信を頼った。
しかし、1578年に上杉景勝らの御館の乱が起こると、相模の北条氏政が北条氏邦を大将にして沼田城を占拠したため、金子泰清は北条家に従い、猪俣邦憲・藤田信吉らと共に沼田城代に就任した。
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これに対し武田勝頼は真田昌幸に沼田攻略を命じて、真田家重臣・矢沢頼綱が沼田城を攻撃。
金子泰清は藤田信吉らと共に真田昌幸に降伏し、以降は旧沼田衆として真田家臣に加わった。
利根郡阿曽砦も略取して金子家清に守らせたとある。
1581年、沼田景義が由良国繁の援助で蜂起し、沼田城奪回の挙兵をすると、沼田旧臣の中からも味方する者が現れて沼田城に危機が訪れた。
その為、真田昌幸は金子泰清に「景義を謀殺すれば川西領の1000貫をあたえる」との書状を送る。
これを受けて、金子泰清は沼田景義に「沼田城を明け渡す」「沼田城主として復帰して欲しい」と、沼田景義の陣に赴いて欺むき、沼田城内に招きいれると、暗殺したと言う。
真田昌幸には二心なく仕えたが、約束は守られず、かつての主を殺したとして減俸されたとも、又は追放され病死したともある。
このように、失意のうちに亡くなったとされる。
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