福島勝広の解説「川越夜戦」北条綱成の弟である福島伊賀守の活躍は?

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福島勝広とは

福島勝(ふくしま-かつひろ)は、戦国時代の武将だが、謎が多い(よくわかっていない)ため、出来る限り明確に記載してみたい。
北条綱成の弟に福島勝広(福島伊賀守)と言う名が見られる。
幼名を弁千代と言い眉目秀麗で美少年だったとようだ。
弁千代は北条氏康の小姓をした。
1546年、川越城の戦い(川越野戦)では3000の兵で篭城する兄・北条綱成を救う為、伝令役を自ら志願して、関東管領上杉憲政古河公方足利晴氏の連合軍80000とも言われる大軍が包囲する中をただ一騎で突破し、川越城に入ったとされている。

川越城救援の軍は北条氏康・自ら率いたがその数は8000。北条勢は戦いを仕掛けられると逃げ回り、あげくには上杉本陣に詫びを入れる使者を送る始末。

しかし。これは北条氏康の策略でした。北条氏康(北條氏康)は敵を油断させ、夜陰に乗じて本陣を急襲する計画でしたが、80000が取り囲む川越城の北条綱成にその計画を知らせ城から討って出ることを伝える必要があり、この伝令役をかってでたのが福島勝広でした。


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まるで美少女が男装したような福島勝広は、鎧の腹巻の上に直垂を着て、大胆不敵にも、ただ一騎で包囲する敵兵の横を突破したと言い、敵兵はただ呆然と見送るばかりだったと言う。川越城に入り作戦を伝えると、またもや、行きと同じようにして北条氏康の許に帰陣した。

そして4月20日夜、北条勢が上杉本陣を急襲する。北条氏康は4手に分けたうちの3隊を上杉憲政の本陣に突入させた。夜陰に不意をつかれた上杉勢は大混乱に陥り、さらに川越城から北条綱成が討って出て、古河公方足利晴氏の陣を突いた。

上杉勢は扇ガ谷上杉朝定が討死。その他名のある武将30人程が討ち取られと言う大敗北を喫した。ただしこの河越夜戦、感状の類がほとんど残っていないのと、当時80000もの大軍を関東管領上杉憲政と古河公方足利晴氏が動員できたとも考えにくく、のちの創作とも言われる。

いずれによせ、上田朝直、太田資時、宮城政業らは北条氏家臣に下り、扇ガ谷上杉氏は滅亡。関東管領上杉憲政と古河公方足利晴氏の権威も失墜し、衰退へと向かった。

さて、弁千代こと福島勝広には、北条氏綱の子・北条為昌の養子に兄・北条綱成と共になり、以後北条綱房(北條綱房)と称したとする説があるが、その後の活躍の程はよくわかっていない。

福島伊賀守の墓

福島勝広(福島伊賀守)の墓は、小田原の万松院にあります。
福島勝広は福島道端とも呼ばれますが、北条家臣となると北条綱房と称し大庭城主となったようです。
北条五代記によると、相模川に棲む全長1.8メートルのスズキを退治したと伝えられています。

福島伊賀守の墓ですが、万松院の本堂左手の裏山にある墓地の高所部分にあります。

福島伊賀守の墓

特に案内板は無いので、写真を手掛かりに探す感じです。

万松院の行き方などは下記ページにて掲載させて頂いております。

関東管領の上杉憲政とは~平井城と平井金山城
松平信康(徳川信康)と徳姫をわかりやすく解説【どうする家康】小田原・万松院にある松平信康の供養塔

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