志村光安とは
志村光安(しむら-あきやす)は戦国時代の武将。
天下分け目の戦いと言えば「関ケ原」のワードが出てきますが、関ヶ原の戦いより二か月ほど前、東北地方では「慶長出羽合戦」と呼ばれる戦いが起きていました。関ヶ原の戦いの前哨戦のようなものです。
慶長出羽合戦の発端は、徳川家康による会津領主・上杉景勝討伐の挙兵に呼応した伊達政宗による白石城攻めで火蓋が切られた形です。しかし西軍の石田三成が挙兵したことで家康が急遽、西上反転を決意し、上杉景勝は東軍である出羽国(山形県)の最上義光に攻撃の的を定め、慶長出羽合戦が本格化しました。
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今回取り上げる志村光安(しむらあきやす)という武将は、前半生の記録がほとんどなく、関ヶ原の戦いから没年とされている1609~1611年までの約10年程度の記録が残る少々ベールに包まれた武将です。最上義光が織田信長や豊臣秀吉への使者として弁が巧みな光安を送ったと言われていますが、詳細な記録は残っていません。こうした事象等から推測すると、1600年の慶長出羽合戦当時は人生経験豊かな壮年期と想像します。
光安は義光から長谷堂城の守備を任せられていました。長谷堂城と最上氏の本拠地である山形城は10㎞に満たない近距離にあることから、出羽国の最終防衛線として位置付けられており、長谷堂城が落城すれば最上氏は滅亡の危機に晒されるほどでした。その長谷堂城を託した義光の光安への信頼の大きさを垣間見ることができます。
上杉軍は最上方の諸城を次々に攻略し、1600年9月14日に長谷堂城攻略のため菅沢山に布陣しました。上杉軍の大将は「愛」の字を掲げた兜で有名な直江兼続で、率いる軍勢は約3万人の大軍でした。上杉軍が布陣した菅沢山は長谷堂城から徒歩10~15分程度であり、両軍は相当近い距離で睨み合っていたと言えます。長谷堂城の守備兵は約1,000人程度でしたので、大軍を目の当たりにした守備兵の戦意を低下させなかった光安の卓越したリーダーシップを伺い知ることができます。
上杉軍の攻撃は布陣翌日の9月15日の夜明けとともに始まりました。長谷堂城は比高120mの独立丘に築かれた平山城で、城の規模は大きいものではありませんが、城下には深田や沼地が広がり、川が堀の役割をなす天然の要害です。籠城した光安はこの地形を巧みに利用し、鉄砲隊の攻撃力が高まる銃火網を緻密に敷くことで大軍による攻撃を遅々とさせました。あらゆる戦術を駆使して上杉軍の攻撃を防ぎ、ついには上杉軍の一翼を担う上泉泰綱を討ちとるなど、戦局はむしろ守備側の最上方が優勢という状況でした。
次第に戦局は膠着状態となって小競り合いが続いていましたが、9月29日に関ヶ原の戦いで東軍が勝利したとの情報が東北全土にもたらされます。大軍を相手に善戦していたとは言え、光安の心中はいかばかりであったでしょうか。その後は義光の甥である伊達政宗の援軍もあり、最上方は一気に反撃に出て会津に退却する上杉軍を追撃します。
長谷堂城を守り抜いた光安の名は一躍世に轟き、徳川家康から加増を受けた義光から戦功として酒田3万石が与えられました。光安は庄内地方の東禅寺城主となりますが、ある時、酒田の海岸に巨大亀が上陸したことを義光に報告し、それを吉兆とした義光が東禅寺城を亀ヶ崎城に名称を改めさせたと言われています。現在も山形県酒田市には「亀ヶ崎」という地名が現存しています。
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その後の光安は1608年に羽黒山五重塔の修造を行い、1609~1611年に死去したとされています。長谷堂城という重要拠点の守備を任され、戦後は広大な庄内平野と多くの港町を有する経済的な拠点である酒田の地を任せた義光の光安への信頼感は生涯にわたって揺るぎのないものでした。
(寄稿)ぐんしげ
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