大江親広とは
大江親広(おおえの‐ちかひろ)は、大江広元と多田仁綱の娘との間に長男として生をうけました。生年は不明ですが、当初の親広は源通親(土御門通親。1149~1202年)の猶子として扱われ、源姓を名乗っていたことや、『吾妻鏡』正治2年(1200年)に右近大夫将監として記録されていることから、12世紀後半にはすでに生まれていたものと思われます。
建仁3年(1203年)に源実朝が祖父の北条時政の屋敷で元服すると、親広は北条義時と共にその準備や饗応を行いました。親広と北条氏、とりわけ義時とは親密な間柄を構築しており、義時の娘である竹殿を妻とし、北条が力を握った鎌倉幕府内で要職を歴任します。
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親広は承元3年(1209年)に遠江守に任ぜられ、建仁3年には鎌倉で永福寺薬師堂の管理、建保元年(1212年)には京都にある法勝寺九重の塔の供養を任されるなど、政治のみならず寺社の管轄も行っていました。中でも、建保3年(1215年)には京都に駐在している御家人の監督役を拝命したのみならず、明菴栄西が臨終した折に立ち会う職務を行っています。
翌年には父が大江に姓を戻したのに合わせて親広も復姓し、建保5年(1217年)には武蔵守に任ぜられ、建保6年(1218年)には政所家司のひとりになっています。また、北条義時の娘である竹殿や、平時家の娘(平時忠の孫娘で源頼家の娘・竹御所に仕えていた)を妻としており、5人の子供に恵まれました。子供達の母としては、時家の娘が三男の広時を産んだことが判明していますが、長男の佐房を始めとした4名の母が誰なのかは不明です。
官位ばかりか幕府の官職を賜り、実力者である北条氏や平家一門の子孫と婚姻関係を結ぶなど、順当に出世して花も実もある人生を送る親広でしたが、その栄華にも徐々に陰りが見え始めます。建保7年(1219年)に源実朝が殺害されたことから親広は出家、蓮阿の法名を名乗り、京都守護に任ぜられた際に武蔵守と民部権少輔(建保3年に拝命)の役職を辞しました。
承久の乱で父や息子と対立
さらに追い打ちをかけたのが承久の乱(承久3年、1221年)で、彼は後鳥羽上皇の求めに応じて朝廷軍に参戦します。食渡(岐阜県羽島郡岐南町)に2000の兵を率いて布陣し、京都防衛のために戦うも、宇治川で官軍大敗の報を受けた親広は兵を残して退却すると言う事態に陥ってしまったのです。
一方で父の広元は上京する強攻策を幕府に検索し、長男の佐房も幕府軍に加勢して官軍の鏡久綱(佐々木定綱の孫で藤原秀康の配下)を倒すなど徹頭徹尾、親広とは相容れずに鎌倉方に味方していました。どのような理由でこの一族が敵対したのかは不明で、何かしらの理由があって不仲になったのか、どちらかが敗れても一族を生き残らせる意図があって敢えて袂を分かったのか、現時点で彼らの心境を知るすべはありません。
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いずれにせよ、親広が一敗地にまみれたことに変わりはなく、彼は承久の乱終結後に姿を消します。首謀者である後鳥羽上皇が隠岐へ流されたのをはじめ、多くの武将や公卿が殺され、加担者は皇族でも容赦なく流刑にされるなど、承久の乱に関わった人々に対する幕府の制裁は苛斂誅求を極めますが、親広はその追及をかわして生き延びました。
東北の地へと落ち延び、寒河江氏の祖に
辛くも逃げ延びた親広に救いの手を差し伸べたのは、広元が地頭を務める出羽国寒河江荘(山形県寒河江市)で、目代(国司などの代理人)を務める母方の祖父である多田仁綱で、彼は追われた孫を匿います。その状況下でも親広が追撃されたり、仁綱に引き渡し要求がなれることはありませんでした。
それでも親広が下向した家臣らと共に出羽で生き残る事が出来た理由については未だにはっきりとしておらず、宿老・広元の息子にして戦功をあげた佐房の父と言う立場か、ないしは北条義時の娘婿として扱われていた事が理由なのかは不明です。妻である竹殿とは離別してしまいますが、親広が父や息子と完全に絶縁してはいなかったらしく、嘉禄元年(1225年)に広元が亡くなると親広は佐房に使いを送り、阿弥陀如来像を作らせてその胎内に父の遺骨を納め、寒河江荘吉川(山形県西村山郡西川町)の阿弥陀堂に安置させたと言われています。
貞永元年(1232年)に御成敗式目が制定され、親広の罪は許されますが、その後も彼は家臣達や祖父・仁綱と共に寒河江での隠遁生活を続けます。敗残の孫をかばい続け、阿弥陀堂の別当をも引き受けてくれた恩人でもある仁綱が亡くなった7年後の仁治2年(1241年)、大江親広はその波瀾に満ちた生涯を閉じ、その遺体は祖父と同じく阿弥陀堂の傍らに葬られたのでした。
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次男の高元が彼の跡を継ぐも若くして死去したため、その後は高元の妻1代限りに相続が認められ、三男の広時が後継した時は寒河江荘の北方は北条に没収される事となりますが、大江氏の血筋は寒河江の地に根付き、18代高貴の代で最上義光に滅ぼされるまでこの地で存続します。
(寄稿)太田
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