真田幸村が真田大八と阿梅を片倉重長に託した理由とは

真田の里紀行にて、久しぶりに上田城を訪れて、ふと思ったことがある。
それは、真田幸村の次男・真田大八と、3女・阿梅の2人を、どうして伊達政宗の重臣・片倉重長が引き受けた(匿った)のか?だ。
大阪夏の陣のあとの話であるため、一歩間違えれば、徳川家康の逆鱗に触れて、伊達政宗らが処分を受けてもおかしくない話と言える。
娘だけであればまだ良いが、並大抵の武将であれば、真田幸村の男子までを匿うことはしないだろう。
実際、豊臣の残党狩りを徳川幕府は厳しく行っている。
どうして危険を犯してまで温情ある対応をしたのか?

真田幸村の遺児を預けると言う逆の立場から言うと、信用して預けたは良いけど、裏切られて徳川幕府に突き出される可能性もあるだろう。
なにも、片倉重長に預けると言う選択以外にも、色々とあったはずだ。
しかし、片倉重長を信頼して預けると、片倉重長や伊達政宗はその期待に見事に答えた。
まるで、真田幸村の味方であったかのように・・。

なぜそこまでしたのであろうか?
今回、上田を訪れて考えているうちに、疑問に思っていたその「理由」が分かった気がしたので、まとめてみる。

片倉小十郎(片倉景綱)と言えば、伊達政宗の家臣で最も信頼された武将だ。
その片倉景綱の嫡男、片倉重長は1601年9月、主君・伊達政宗の京都伏見御登に、父・片倉景綱とともに同行。
1602年1月には豊臣秀頼、1602年7月には小早川秀秋に拝謁し、1603年になって伊達政宗とともに白河城に戻るなど、父同様に伊達政宗の腹心として活躍していた。


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1614年からの大坂の陣では、病気の父に代わり参陣して、後藤又兵衛(後藤基次)を討ち取るなどの戦功をあげると、智勇兼備の名将として「鬼の小十郎」と呼ばれている。
この時、伊達勢の戦果の25%を、片倉隊が上げており、のちに父・片倉景綱からは大将としてあるまじきと叱責を受けているほどだ。
大阪の陣のあと、1615年10月14日、父・片倉景綱が死去すると片倉重長が家督を継いだ。

そんな片倉重長の正妻・指月院(針生盛直の娘)は江戸の藩邸に滞在していたが、1620年に、なんと真田幸村の娘・阿梅(3女)を、継室として迎えている。
この阿梅は、大坂城が落城したあと、身分を隠して片倉家の侍女になっていたとも言われ、真田家の旧臣らが慕って片倉家を訪れた際に、真田幸村(真田信繁)の娘であったことがわかったと伝わる。
ただ、これは恐らく伊達政宗らが「真田幸村の娘だとは知らなかった」という言い訳であったと推測する。
なお、三井景国(三井覚左衛門景国、三井奉膳?)と言う真田幸村の旧臣も、そのまま片倉家に仕えた。
更に、阿梅を妹のようにかわいがった正室・指月院が、阿梅に妻となるように頼んで亡くなっとも言われている。
また、真田幸村の次男・真田大八(真田守信)は、阿梅の夫である片倉重長に、姉と共に保護され、養育を受け元服すると、片倉守信と名乗っている。
当然、徳川幕府は真田の遺児を預かっている伊達家を追及したようだが、幕府旗本になっていた真田信尹の孫を養子にもらったなどと弁明し、うまく回避している。

なお松代・真田家の「真田氏系図」と「蓮華定院」では、真田大八は京都で印地打ち観覧中、石に当たって他界したとされているが、これは伊達家が1624年に流した虚報のようだ。
上記の通り「仙台真田系譜」では、真田幸村の遣命により西村孫之進と我妻佐渡守らに守られて落ち延び、仙台藩の先鋒だった片倉重長(片倉重綱)に託されたとされる。
真田大八(真田守信)と阿梅(おうめ)は片倉重綱が伊達政宗に許しを得て、江戸藩邸にて匿ったのだ。

なお、大八と阿梅だけでなく、阿菖蒲おかね、そして、穴山小助の娘・菖蒲も片倉重長が白石城の二の丸にて養育したともある。

白石城

1615年5月7日、真田幸村が最後の戦いを挑んだ日、片倉重長宛に手紙を書き、菅沼覚左衛門と永沼弥右衛門が片倉重綱の陣所に届けと言う。
「東軍を見る限りあなたに及ぶ者はいない。私の運命は夕方には終わるだろう。私には娘らがいる。願わくばあなたに託して命を助けてたい。」と・・。

片倉家は諏訪大祝の神官だった

片倉家の先祖は、鎌倉武士の加藤景廉(加藤判官景廉)で、その末孫が信州・片倉村に住むと片倉氏を称し、諏訪大祝の神官にもなっていた。
片倉村と言うのは望月六郎の望月からほど近い、現在の長野県佐久市にある。

その後、片倉家は1354年頃に奥州管領・斯波家兼に付き従って奥州に移り住んだとされる。
そして、片倉景時の代から神職の傍ら伊達家に属すと、嫡男・片倉景親(片倉意休斎)が出仕して、次男・片倉景重は米沢八幡宮の神職として仕えた。
この片倉景重が、・片倉景綱・片倉重長と繋がるのである。
片倉景綱は米沢八幡宮の近く片倉館にて生まれたとする他、川西町塩ノ沢地区とする説や成宮八幡宮であるとす説など諸説あり、米沢八幡宮があった場所は現在、特定できていない。

片倉家の家紋は九曜であり、この九曜は真田家とも縁が深い望月氏の丸に九曜と同じ家紋だ。

となると、昔の侍は家の筋目も重んじていたことから、真田幸村はその辺りの事も知って、真田大八や阿梅を、武勇名高い片倉重長(片倉重綱)に託したと言って良いのではなかろうか?
片倉重長や伊達政宗も、もし、こんな事で将軍家から咎められ、戦になったらなったで、それを口実に決戦を挑んでも良いと考えていたのかも?と、感じずにいられない。

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コメント

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  1. 玉堂

    道明寺の戦いで若き二代目片倉小十郎重長は自ら戦場に立ち命にかかわる大ピンチに直面する。その時、足軽身分の兄弟家来に助けられ九死に一生を得たという。怒った初代小十郎景綱は帰郷した重長を城内に入れなかったとも言われている。そのような背景の中、真田幸村は傷ついた敵の武将に大切な子ども達をドラマチックに託したのだろうか…?重長は真田の子どもとは知らずに連れて帰ったという説は正しいように思える。そして真田の血はみちのくへと逃れたのである。誰かの手筈通りに…。
    重長公を助けた足軽身分の兄弟の名は小室惣右衛門(惣次郎)と小室彦七郎と伝えられている。彼らの出身は信州小諸。大坂夏の陣の15年前に伊達政宗が白石城を攻め落とした戦の際、政宗公に加勢した野臥(のぶし)集団「小原十八騎」の一員である。大坂の陣には野臥数名が片倉家の助っ人として参戦し、後に片倉家臣になっている。