笛吹峠の戦い 新田義宗X足利尊氏

笛吹峠の戦い

笛吹峠(ふえふきとうげ)は、埼玉県鳩山町と同県嵐山町の境にある峠ですが、標高は80mと低く、丘陵地帯の緩やかな峠と言う感じです。
古来から交通の要所であり、平安初期には、坂上田村麻呂が布陣したと伝わる「将軍沢」の地名が今でも残っています。
アテルイなどの蝦夷征討に向かった際に、野営でもしたのでしょうか?


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鎌倉時代には鎌倉街道が通っており、今でいう重要国道でした。

下記の地図ポイント地点となります。

武蔵・大蔵館から南下したところにあります。

笛吹峠の戦い

南北朝時代となり、新田義貞の討死後である正平7年(1352年)、新田義貞の3男・新田義宗(にった-よしむね)、新田義興、脇屋義治、北条時行らは、南朝勢・宗良親王(むねよししんのう)を奉じて挙兵します。
そして、鎌倉街道を南下し、武蔵野合戦にて、鎌倉に入っていた、足利基氏畠山国清、仁木頼章、結城直光、宇都宮氏綱、河越直重、江戸長門、大石信重ら足利尊氏の軍勢と戦いました。

ちなみに、新田義宗の正室は、常陸・小田城小田氏一族と考えられる小田真知の娘となります。

しかし、南朝勢は押されて、新田義宗は笛吹峠まで撤退して陣を敷き、上杉憲顕と合流するなど兵力回復に務めました。

笛吹峠の戦い

こうして決戦を挑んだわけですが、2万の新田義宗は、8万の足利尊氏に大敗を喫します。

その結果、新田義宗は越後に逃走し、宗良親王は信濃に逃れたため、関東での南朝勢力は一掃され、足利尊氏は関東を完全に制圧して行きました。
その後、足利基氏が鎌倉公方となり、畠山国清が補佐しています。


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激戦であったのを表すかのように、道路工事をした際に、大量の人骨が出ています。

なお、宗良親王が、月明かりの夜に、笛を吹いたことから「笛吹峠」と呼ばれるようになったとの伝承もあります。

越後に逃れていた新田義宗は、足利尊氏の死後、越後を中心に新田義治と共に北朝に対抗していましたが、1368年に上野・沼田で敗北、討死したとされます。

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