伏見城「豊臣時代」と「徳川時代」数奇な運命を辿った城

伏見城

数奇な運命を辿った城、伏見城
その伏見城があったとされるのが、安土桃山時代という名称のもとになったとされる場所、桃山です。
伏見城の歴史を大きく分けると「豊臣秀吉公時代」「徳川家康公時代」の2つに分けることができます。


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太閤となった秀吉公が隠居をするための城として、伏見城は築城されました。
そしてその後、徳川家が入城しましたが、関ヶ原の戦いの際に西軍によって攻撃され、徳川家康公の家臣、鳥居元忠公が命を懸け守りますが、敗れてしまい自刃。焼失した城としても知られております。
此度は、秀吉公を語る際に外すことの出来ない、伏見城の歴史について、綴らせて頂きたく思います。

豊臣秀吉

当初の伏見城は城というよりは、秀吉公が余生を過ごすための邸宅として建てる予定であり、決して大がかりなものを造るつもりではなかったと考えられています。

そして伏見城は、指月山に建てられまた。
指月山は自然豊かでありながら、その景観の美しさから、皇族や貴族の別荘が建てられていた土地だったそうです。また平安時代から月の観賞の名所としても知られていたそうです。
秀吉公はそんな指月山を気に入っていたのかもしれません。

そんな伏見城は3回にわたり造られ、最初に築城がはじまったのは、文禄元年(1592年)。
そして築城開始から2年後、文禄3年(1594年)に秀吉公が入城します。

しかし文禄2年(1593年)秀吉公が57歳の時、豊臣秀頼公が誕生します。これにより秀吉公を取り巻く環境が変わってしまいます。
大坂城を秀頼公に残すと決めた秀吉公は、伏見城を隠居屋敷ではなく、いわゆる城へ改修しておこうと考えます。
こうして伏見城は城郭としての改築され、城としての機能が高くなります。
その為、向島に向島城が建てられ、そちらは私的な場所として使われていたようです。

豊臣秀頼

伏見は、近畿地方への交通の要所とされた土地です。
文禄3年(1594年)に、城を築く際の建築資材を運搬するため伏見港が開かれ、太閤堤や槙島堤と呼ばれる堤防も築かれました。
これにより伏見の城下は大阪と繋がる港町となります。
秀吉公亡き後も、この港は大坂夏の陣と冬の陣において武器や食料を運ぶために使われたり、昭和40年頃まで運搬に使用させていたと伝わっております。

そして城の改築と共に、とても短い期間で城下町も造られていきました。
道路が整備され区画整理が行われ、寺社や武家屋敷、道路なども新しく造られました。この時、町を囲むように外堀も造られました。

ですが文禄5年(1596年)に、伏見大地震が起こります。直下型地震で大変大きな地震でした。
そして残念ながら、改修途中の伏見城は倒壊してしまいます。
この時秀吉公は伏見城にいたと云われており、城内いた多くの者が命を落とす中、何とか避難することができました。

現在になり、指月伏見城跡にマンション建設が行われた際に、石垣や堀、金箔が施された瓦などが出土し、出土した品々から、指月伏見城が大変豪華だったことがわかりました。
ただ残念なことに、指月伏見城の絵図は残ってはいないようです。

その後すぐに、伏見大地震で倒壊した指月伏見城を、1キロほど北東にある木幡山に再建するようにと、秀吉公は伝えます。
建設は昼夜を問わず行われ、新たな伏見城は大変短い期間で完成したようです。
明確なことは不明ではありますが、聚楽第も移設されたと云われています。

ですが…慶長3年(1598年)に秀吉公が亡くなります。亡くなった場所は、この伏見城でした…
在城期間はわずか4年でありました。ただ晩年は、この伏見城で過ごすことが多かったと云われております。

その後、秀頼公は秀吉公の遺言に従い、伏見城から大阪城へ移り、木幡山伏見城には五大老筆頭、徳川家康公が入城しました。

徳川家康

ですが、慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いが起こります。
その関ヶ原の戦いの前哨戦とも言うべき「伏見城の戦い」が勃発。
その時にこの伏見城を守っていたのが鳥居元忠公。家康公の忠臣として知られております。
宇喜多秀家公ら豊臣方の武将が、4万の兵を率いて伏見城を攻撃。
強力な攻撃に耐えながらも、鳥居元忠公とその家臣達は、伏見城にて自刃致しました。

鳥居元忠

自刃の際に飛び散った血は床板に残りました。

その血の跡は現在でも消えることなく残っており、京都市の養源院や宝泉院な多くの寺で供養を兼ね、天井板として再利用されており「血天井」と呼ばれています。見学も可能です。

その後、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康公は、慶長6年(1601年)に伏見城へ入城し、伏見城と二条城の再建を開始します。
その後、慶長7年(1602年)に、藤堂高虎公が普請奉行に起用され、同年末頃には、ほぼ再建されます。
翌年の慶長8年(1603年)に、家康公は、伏見城で征夷大将軍の宣下を受け、以後三代徳川家光公まで、伏見城で将軍宣下式を行いました。


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その後も作事は続けられましたが、駿府城の改築により、慶長11年(1606年)頃に、伏見城の作事は停止。元和5年(1619年)には、伏見城の廃城が決まります。
元和9年(1623年)徳川家光公の将軍宣下が伏見城にて実施された後、伏見城はその使命を終え、完全なる廃城となりました。

徳川時代の伏見城は、豊臣家攻略の前線基地として活用され、徳川家光公の将軍宣下で幕を閉じました。
その後、伏見城の天守は二条城へ移築され、その他の建築物も福山城淀城江戸城、大坂城など、全国各地に移築されました。
ただ、伏見城大手門は御香宮神社の表門として移築されており、現在も見ることができます。

御香宮

城跡一帯が開墾されてから、この土地に桃の木が植えられ、一帯は桃山と呼ばれるように。
後に伏見城の通称として、桃山城と名付けられる由来となりました。

そして時はたち、1964年『伏見桃山キャッスルランド』のシンボルとして、伏見城が建設されます。伏見城の資料を参考に、5重6階の大天守と3重4階建ての小天守、櫓門などが建てられました。
天守からは、京都全体はもちろん、天候が良ければ奈良まで見渡すことができるかと思われます。
ただ現在は、耐震基準を満たしていないので、中に入ることはできなくなっております…

そして2003年に、伏見桃山キャッスルランドも閉園となります。
ただ、閉園の際に伏見城も壊されることになったのですが、住民の皆様の「残してほしい」という強い要望により、残されることが決まりました。
今では伏見桃山城運動公園として、京都市に寄贈されております。

伏見城

秀吉公を語る際に外すことの出来ない伏見城は、短命の城ではありましたが、現在でも住民の方に愛され、その姿を残された城でもあります。

そんな伏見城を背景に、伏見城を盛り立てる為の「伏見お城まつり」が、10月14日(日)に開催されます。
今年で5年目の開催となります。

伏見お城まつり表

私の所属団体「乙訓戦国つつじ」は、実行委員会としても活動させて頂いており、当日は秀吉公を主人公とした甲冑劇を披露させていただきます。

伏見お城まつり裏

その他、会場内にて写真撮影対応を行ったりのおもてなし活動、13時から同会場内にて行われる「五大老サミット」のお手伝い、伏見お城まつりのマスコットキャラクター、伏見もも丸くんの「もも丸マーチ」披露の際にも出陣致します。

五大老サミット

「伏見」は「不死」が語源とも言われております。
伏見を想い、伏見城を愛する、町の皆様と作り上げている温かいお祭りです!是非、お越し下さいませ!


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(寄稿)在原 叶

在原 叶のシリーズはこちら
明智光秀公顕正会 30周年記念フォーラム参加レポート
鳥居元忠~伏見城で華々しく散り忠義を貫いた三河武士
伏見城の観光情報~伏見城の戦いでの鳥居元忠

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