八田家重と八田御朱印屋敷~石和の八田家書院





武田信玄の家臣に末木正重の子である蔵前衆・八田家重(八田淡路守家重)なる武将がいます。
八田氏と言うと常陸の豪族(宇都宮家の支流)八田宗綱が良く知られますが、この八田家重もその末裔と称しています。

蔵前衆(蔵前奉行)と言うのは、年貢徴収・管理・輸送を担当した責任者となります。

八田家は甲斐の一宮町末木を与えられ、当時は末木家重(末木淡路守家茂)と称していたのが、甲斐国志にも見受けられます。

このように八田家重(末木家重)は蔵奉行でしたが、元々は商業活動も行う在郷商人だったようです

甲陽軍鑑では御料所を管理する代官衆(御蔵前衆、御蔵前ノ頭)として伊奈宗普(水上宗普)・諏訪春芳・八田村新左衛門尉・松木珪琳の4名の名がありますが、基本的には裕福な町人が選ばれています。



1581年2月7日、八田家重(末木家重)は家督を嫡男・末木政清に譲って隠居しました。
その後、4月16日に武田勝頼が追認しています。

1582年、織田信長の甲斐侵攻にて武田勝頼が自刃した際に、八田屋敷も戦火を受けて全焼したようですが、その後、末木政清が徳川家康から御朱印(諸役免許状)を賜っています。
その時、もとの姓である八田に戻して、八田政清と復姓した模様です。
なお、隠居していた八田家重(末木家重)も1587年頃までには死去したと推定されます。

なお「弟」とされる八田新左衛門尉(八田土佐守)なる武将もいます。
ただし、八田家重の子なのか、八田正重の子なのかは定かではありません。
1583年4月に八田政清が、1583年9月には八田新左衛門尉が棟別の免許を受けています。

この弟・八田新左衛門尉には子が無く、八田政清の二男・八田政俊(八田菅太郎)が、その後、両家を相続して豪商を続けたようで、苗字帯刀を許されたとの事です。

八田家御朱印屋敷

八田家御朱印屋敷(はったけごしゅいんやしき)は八田氏屋敷・八田城とも呼ばれますが、八田政清は徳川家康から「御朱印」賜って、所領安堵となったため、石和では御朱印屋敷と呼ばれることが多いようです。

ただし、江戸時代には豪商になった模様で、八田家は苗字帯刀を許され3400坪の屋敷地が、引き続き「御朱印地」として安堵されたようです。

伝承によると八田屋敷には主屋のほか、西座敷、西蔵、中味噌蔵、文庫蔵、御方屋、酒部屋などがあったとされます。

現在ある表門は、1661年に石和代官所が設けられた際に、代官・平岡勘三郎良辰が石和陣屋の門として建てたものです。

石和陣屋の門

八田家が1874年(明治7年)11月に払い下げを受けて、表門としてここに移築しました。

石和陣屋の門

八田家書院

八田家が徳川家康から万力御林の木材伐採許可を得て、1582年11月に母屋を再建しましたが、その後、1601年に都留郡富士根の材木にて増設したのが、下記の八田家書院(はったけしょいん)の始まりです。

八田家書院

茅葺入母屋造で桃山時代末期の武家書院様式とされます。
なお、1859年7月に起きた笛吹川の洪水で母屋などは破壊されたようで、現在の書院もその後に建造された特徴があるとの事です。

八田家書院

八田家書院の内部は、お茶と解説付きで有料拝観できるのですが、この日はちょうど「節句」と言う事もあり、色々とテレビ局の撮影も来ていたようでして、遠慮させて頂きました。
ちなみに、外からの見学でしたら無料です。

八田家書院

甲斐の豪族屋敷跡としては大変良く公園整備されており、無料駐車場と趣きあるトイレも完備されています。
また、北側には高い土塁も残されていますが、洪水時の堤防も兼ねていたようです。

八田家御朱印屋敷跡の駐車場は下記の地図ポイント地点となります。

高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査・研究している歴史人物研究家です。
自慢できるものはありませんが、資格は史跡訪問のための国内旅行地理検定2級、水軍研究のための小型船舶操縦士1級など。

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