相模国・北条氏照の家臣に拝島・羽村・久保・天間・高築の5ケ村の領主である石川土佐守という武将がいた。
その石川土佐守の娘・おねい(7歳)は、両目が見えなくなった眼病を患ったが、せめて片目だけでも見えるようにと、1573年頃に拝島大日堂に眼病平癒を祈願した。
そして、大日堂の下から湧き出る水で眼を洗ったところ、何と左目が見えるようになったと言う。
上記は現在の大日堂。
石川土佐守一族はそのお礼に古い大日堂を再建し、また新しく大日八坊(一山八坊、8つの寺院)を建立し、滝山城の鬼門よけにしたと伝えられている。
現在でも、大日堂石段の脇に「おねいの井戸」と呼ばれる小さな井戸がある。
織田信長が比叡山延暦寺の焼き討ちを行った際「慈恵大師の像」を、敬甚大僧都が救出し、諸国を回ったが、1578年に拝島の大日八坊の1つである本覚院(上記写真)に安置したとされている。
慈恵大師の像があるので、本覚院が今日「拝島大師」と呼ばれる由縁である。
このように拝島大師は、大日八坊の1つである本覚院であり、952年に多摩川が洪水になった際、中州の島に流れ着いた大日如来像を、大日堂を建立して安置したのが始まりで、この像を村人たちが「拝んだ」ことから、拝島の地名がついたと考えられている。
大日堂脇の日吉神社は、大日堂の守護社。
1569年、武田信玄が滝山城を攻めた際には、本陣をこの大日堂に置いたとされており、2000で劣勢だった滝山城が、20000の武田勢を凌いだのは、滝山城の鬼門除け効果であったとも言われている。
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1576年、大日堂の本堂の地面に、後世の改修費にと永楽銭1000貫を埋めたという伝承がある。
現在の大日堂の場所は、江戸時代の1732年に移された場所の為、現在の場所ではないと考えられる。
1995年、拝島の隣にある福生市熊川にて大量の永楽通宝が出土しているが、関連性はわかっていない。
拝島大師の無料駐車場は下記の地図ポイント地点。
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