支倉常長の解説【慶長遣欧使節】ヨーロッパに渡った伊達家臣の武将をわかりやすく

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支倉常長とは

支倉常長(支倉六右衛門常長、支倉六右衛門長経)は、戦国時代の1571年、伊達家家臣である・山口常成の子として生まれた。幼名は與市。
父・山口常成は、伊達家譜代の家臣である支倉城主・支倉常正の3男で、伊達輝宗の御近習役(50石)にもなったが、その後、若いころに山口城主となった事から、山口姓を名乗ったようだ。

支倉常長(はせくら-つねなが)が誕生したあと、父・山口常成の実家に当たる支倉家本家を相続した、支倉時正(支倉城主)に子がなかなかできなかった為、1577年、7歳の支倉常長は支倉時正の養子になった。
支倉時正は旗頭・武者奉行として功績をあげ、1200石となったが、その後、支倉時正が娶った妻との間に2人の子供(支倉久成、支倉常次)を設けた為、伊達政宗の命により、支倉家は支倉久成600石、支倉常長600石と分家された。

支倉常長は朝鮮出兵に従軍し、足軽・鉄砲組頭として軍功を挙げている。この時の外洋渡航や異国滞在の経験と統率能力が、のち使節団長として選ばれた理由とも考えられている。
また大崎・葛西一揆でも鎮圧に従軍した。


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1608年10月22日には、下伊沢郡小山村をはじめ60貫文の領地を与えられる。

1609年、前フィリピン総督ドン・ロドリゴの一行が、ヌエバ・エスパーニャ副王領(現在のメキシコ)への帰途の途中に台風に遭い、上総・岩和田村(現在の千葉県御宿町)の海岸に座礁難破し、御宿の地元民が救助した。
徳川家康は、船大工としての経験もあったイギリス人のウィリアム・アダムス (三浦按針)に命じて、1607年に建造していた120tのガリレオ船を前フィリピン総督ロドリゴ・デ・ビベロに提供し、メキシコに送還した事で、日本 (江戸幕府) とエスパーニャ(スペイン)との交流が始まった。

1611年には、前フィリピン総督ロドリゴ・デ・ビベロを救助した御礼の為に、来日していた、セバスティアン・ビスカイノが、日本沿岸測量の途中、1611年11月10日に仙台で伊達政宗にも謁見した。
この頃、フランシスコ会宣教師のルイス・ソテロも伊達政宗に謁見し、東北でのキリスト教布教を認められている。(ルイス・ソテロは、ドン・ロドリゴの一行が遭難した際、通訳を務めたので、セバスティアン・ビスカイノの通訳として仙台に同行していた可能性もある。)

1612年11月、スペインへの帰途の際、セバスティアン・ビスカイノの船は破損し、帰れなくなった。

諸藩が大型船を作る事は禁じられていたが、伊達政宗は、徳川家康にヨーロッパへ遣欧使節を送る許可を得て、エスパーニャ国王・フェリペ3世の使節であるセバスティアン・ビスカイノの協力により、約500トン級で最初の日本製西洋型軍船ガレオン船「サン・フアン・バウティスタ号」を、仙台藩・陸奥国桃生郡水浜(三陸海岸の雄勝湾)にて約45日掛けて建造。

1613年6月、小伝馬町の牢屋に捕えられ、処刑される予定だったスペイン人のフランシスコ会宣教師であるルイス・ソテロを伊達政宗は陳情して救い出し、仙台藩の外交使節に任命。
当初の目的は、メキシコとの直接通商交易を開くことであったが、ソテロがスペインだけでなくローマにも使節を派遣することを進言。 
伊達政宗はセバスティアン・ビスカイノ提督と、家臣・支倉常長ら一行180余人をヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)経由で、エスパーニャ(スペイン)、およびローマへ派遣することを決定した(慶長遣欧使節)。

支倉常長らは1613年9月15日に、使節団30名と商人ら150名を乗せ、月ノ浦(現・石巻市)を出港。
太平洋を横断して、3ヶ月後の1613年12月19日(25日、29日とも?)にメキシコ・アカプルコに到着した。

支倉常長らは1614年2月14日にメキシコ市に到着し、約1ヶ月滞在すると1614年3月30日に陸路で大西洋岸のベラクルスに移動開始。
日本からメキシコに渡った大半の者はそのまま約1年間メキシコに留まり、仙台の鉱山産業の発展の為に約50人の鉱山業・銀精技師を連れてサン・ファン・バウティスタ号にて日本に戻った。


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スペイン国王とローマ教皇あての手紙を託されている支倉常長ら30名の使節団は、1614年6月10日、ベラクルスからスペイン艦隊に便乗して大西洋を渡りスペインに向かった。
途中、サン・ファン・デ・ウルーワに寄港して、嵐に会い、キューバのバナナを経由。その後、サンルーカルを経てスペインに到着したのは、1614年10月5日。
ソテロの出身地であるセビリアで大歓迎を受けた。ソテロの巧みな弁舌により、日本皇帝(将軍)と奥州王の大使が、スペインに服従すると思われていた節もあり、国賓級のVIPが泊まるアルカサール宮殿が宿舎として提供されている。

支倉常長らはトレドを経て、1614年12月5日頃、スペインの首都・マドリッドに到着し、サンフランシスコ修道院を宿舎とした。
約1ヶ月後の1615年1月2日、ようやく、当時の世界最強国であるスペイン国王フェリペ3世に謁見。伊達政宗の手紙を渡し、宣教師の派遣とメキシコとの貿易許可を求めた。
1月20日、支倉常長は王立フランシスコ会跣足派の女子修道院付属教会において、スペイン国王やフランス王妃たちの列席のもと洗礼を受けた。
洗礼名は、国王と聖人の名前を冠した「ドン・フィリッポ・フランシスコ・ハセクラ・ロクエモン」。

しかし、ソテロと対立するビスカイノやイエズス会側から、日本国内での禁教と弾圧、ソテロの事実と異なる報告、支倉使節の目的が本当は貿易だけであること、かつ伊達政宗は日本の一領主に過ぎないことなど、支倉常長ら使節にとって不利な情報が次々ともたらされ、華やかな歓迎とは裏腹に、国王から良い返事は得られず、マドリッドで8カ月間を過ごした。
メキシコ副王も、一領主(大名)にすぎない奥州王と協定を結ぶ必要は無いと国王に報告していた。
 
その後、支倉常長らはローマ教皇に謁見した方が早いと考え、1615年8月22日にローマに向けて出発。
シピオーネ・アマティ(Scipione Amati)が遣欧使節一行の通訳兼交渉係として支倉常長らと行動を共にすることとなり、一行はバルセロナから船で地中海を渡り、1615年10月12日にイタリア・ジェノバ港に入港。
支倉常長らは華麗な衣装を身にまとい、9月7日、ローマへの入市式の行進を行った。軽騎兵を先頭に各国の大使や貴族らが着飾って行進する中で、支倉常長使節一行が刀や脇差を帯刀して行進した記録が残されている。
一度、非公式にローマ教皇パウロ5世に謁見したようだが、1615年9月12日、サン・ピエトロ寺院にてローマ教皇パウロ5世に正式に謁見。伊達政宗からの書状には、スペイン国王との仲介を依頼することが記載されていた。
その手紙は現在もヴァチカン図書館に保管されている。
ローマでは、支倉常長の高潔な人柄が褒め称えられ、支倉常長は貴族の位を与えれられ、10月3日に使節8名はローマ市公民権が授与された。
その時の「ローマ市公民権証書」と、支倉常長が持ち帰った絵画「ローマ教皇パウロ五世像」「支倉常長像」(日本人を描いた油絵としては最古)は、現在、いずれも国宝として仙台市博物館で保管されている。

貿易はスペイン国王に一任されたものの、ローマ教皇から宣教師派遣について前向きな返答を得た使節は、11月18日にローマを発ち、再びスペインに戻って、フェリペ3世と通商交渉を再開した。
しかし、交渉は成立せず、インディアス顧問会議から国外退去の勧告を受けてセビリアに移ってからも、支倉常長らはセビリア近辺にあるコリア・デル・リオに長期滞在し、国王陛下からの書状なしでは帰国できないと交渉を続けた。
一行がフィリピンに着いたときにソテロに返書を渡すと言う約束を取り付けた支倉常長らは、1617年6月2日、セビリアからメキシコに向けて出港。


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支倉常長らは、メキシコでしばらく滞在し、ルイス・ソテロと合流。
一方、日本に戻っていたサン・ファン・バウティスタ号はルイス・ソテロの要求で、1616年9月、仙台藩士の船長・横沢将監(横澤吉久)により日本を出港し、アカプルコへ向かっていた。
その航海中に約100名の水夫が死亡するも、なんとかメキシコに到着。
支倉常長らは迎えに来たサン・フアン・バウティスタ号にて1618年3月7日、アカプルコから太平洋へ出港し、1618年6月20日、フィリピン(ルソン島)に到着した。

支倉常長はフィリピンのマニラから、長男・支倉勘三郎あてに手紙を出し、使節に同行した3人の足軽衆をはじめ、支倉常長の家来たちはみな元気であること、清八、一助、大助の3人がメキシコで逃げたこと、殿様への買い物などの事をしたためている。
また、フィリピン滞在中にスペイン国王から伊達政宗に宛てた返書を受け取ったが、この返書は儀礼的なもので、交易などの具体的な回答はなかったと言う。
フィリピンでは、伊達政宗より待機を命じられた?ようで、2年間、フィリピンに滞在した際、サン・ファン・バウティスタ号はオランダ軍への防衛を固めていたスペイン艦隊に買収され、支倉使節団と横澤吉久らはソテロをフィリピンに残したまま、別の船で、1620年6月7日、ようやく日本の長崎に到着した。

一方日本では、1609年のオランダ、1613年にはイギリスが長崎の平戸に商館を置いて「平戸貿易」を活発化させ、1612年に直轄領でキリスト教を禁じると、1613年12月には全国に禁教令を出して。江戸幕府はヨーロッパ船の来航を平戸と長崎に制限し、南蛮貿易(スペイン・ポルトガル)を縮小させていた。1614年9月には高山右近らが国外追放。
1619年10月には、2代将軍・徳川秀忠の命により、京都の六条河原でキリシタン52名を処刑されている。
このように、江戸幕府はキリスト教を禁止し、オランダ以外とは交易をしない「鎖国政策」へと転換していた為、伊達政宗もその方針には逆らえず、進められていたメキシコとの貿易協定などは破棄された。

支倉常長は、帰国後、1620年8月24日に伊達政宗に7年にも及んだ海外経験を報告。その直後、仙台藩領内にキリスト教禁止令が発せられた。
伊達家は1620年1年報告書を幕府に提出した。その一方で、仙台藩におけるキリスト教徒の探索迫害が激化し、領内全域に及んでいた。
 
支倉常長が持ち帰った品々は、息子・支倉常頼の代にキリシタンに関わるものとして仙台藩に没収され、決して表へ出ないように厳重に保管されることになった。
このため、支倉常長の業績が評価されることは無く、失意のうちに2年後の1622年7月1日に支倉常長は没している。享年52。

1622年、ソテロがフィリピンから密入国。
1623年、伊達政宗は江戸参勤中に第3代将軍・徳川家光に招かれ、奥州のキリシタン弾圧を強化するよう申し渡されている。
1624年、ソテロが捕縛され、伊達政宗の助命嘆願があったが、火あぶりの刑に処さられた。51歳。


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支倉家は嫡男・支倉常頼が継いでいたが、1640年、召使い3人と弟・支倉常道がキリシタンであったことの責任を問われて処刑され、支倉家は断絶した。
 
約250年ものあいだ、慶長遣欧使節の存在は忘れ去られていたが、1873年(明治6年)に、明治政府がヨーロッパとアメリカに派遣した岩倉具視らの使節によって、訪問先のイタリア(ヴェネツィア)で、支倉常長の書状を知らされ、ようやく業績が認められるようになった。

支倉常長らが長期滞在した港の町「コリア・デル・リオ」には、2013年現在、ハポン(Japon=日本)姓のスペイン人が約700人住んでいる。
スペインの姓名は、出身地を表すことが多い事から、支倉常長らの一行で日本に帰らず現地に留まった日本人がいたと推定され、2013年10月24日、名古屋大学、東京大学、国立遺伝学研究所などが共同で、約600人の住民から血液採取。DNA鑑定で日本人の遺伝情報との比較を行うことになった。

伊達政宗に関してはこちら
千々石直員と釜蓋城~天正遣欧少年使節の千々石ミゲルはキリスト教を辞めた?

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