豊臣秀吉の小田原攻めの際、同じく篭城していた忍城城主の成田氏長は、忍城を成田泰季に預け小田原城に参陣していたが、蒲生氏郷の調略と太田三楽斉(太田資正)の説得を受けて6月20日に小田原城を出奔し、豊臣秀吉に降伏した。
北条方で他に篭城した城と同じく、城主の家族は所領の城に残った為、成田氏長の妹・甲斐姫も「忍城」に残っていた。
そう、映画・のぼうの城でも出てくる、成田長親などの、忍城籠城戦の話である。
忍城は石田三成を大将として長束正家が副将、そして佐竹義重や宇都宮国綱、結城晴朝など20000が包囲したが湿地帯だった為、豊臣秀吉は多彩な城攻めを北条氏に示す事もあり忍城は「水攻め」することを石田三成に命じたと考えられる。
しかし、豊臣秀吉は無謀にも忍城の状態を視察することなく、水攻めを指示していたので、堤防工事は実に28kmに及んだとされ、たった300で守る忍城は小田原城よりも持ちこたえたのである。
天気が良く水が干上がり気味になり、忍城が火消し用にと水をどんどん城に引き入れるた。
更に、石田三成が水攻めの堤防工事に地元農民を徴用した為、豊臣勢に反感を抱いていた農民が適当に堤防工事をしたとされ、水がようやく貯まっても堤防を篭城勢が決壊させるなどして、逆に石田三成勢に多数の死者がでた。(別説では偶然決壊できたとも)このように、思うような水攻めの効果が上がらなかった。
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忍城は大軍の攻撃に持ち応えたが、城内には僅かな兵300と城下の農民2700など合わせて3000人程しかおらず、また城代となっていた成田泰季も城内で病死したと言われている。
圧倒的な劣勢の中、成田長親が城代となり、少ない篭城勢を成田氏長の妹・甲斐姫も、自ら兜をかぶって陣頭指揮を取り、僅かな篭城兵も姫を信じて大いに抵抗を続けたと言う。
真田昌幸と真田幸村親子、浅野長政勢が石田三成の援軍に駆けつけ、戦上手な真田勢により城門の1つが突破されそうになったが、城兵を率いた甲斐姫自身が敵将・三宅高繁などを討取り、防御に成功し、士気も上がったと言われており、以後、城内に敵の侵入を許していない。
次々と北条勢の城は開城もしくは落城する中、忍城は抵抗を続けるがついに7月5日に小田原城開城。そんな事を知らない忍城は篭城を続け浅野長政との間で小競り合いが続いた。
7月15日頃になって当主・成田氏長より小田原城も降伏したから開城するようにとの指示があり、忍城は7月20日(7月16日とも)開城した。
甲斐姫たちは正々堂々と城を出たと伝えられており、僅かな兵力にて篭城を続けたのは豊臣勢にも立派に見えたらしく、籠城兵たちの罪は問われず、財産も維持されたと言う。
その後、甲斐姫は成田氏長と共に蒲生氏郷に預けられ、岩代・福井城に居住した。
その時、家臣の浜田将監と弟・浜田十左衛門が成田氏長の留守中に謀反を起こし、福井城本丸を占拠。甲斐姫は異変を察すると、反撃に出て異変を知って引き返して成田氏長と合流して浜田兄弟を討ち取ったとされる。
この甲斐姫武勇伝を知り豊臣秀吉は大変気に入ったとされる。
この成田氏長の妹・甲斐姫は関八州随一の美人であったとも言われ、祖父にあたる太田三楽斉(太田資正)と兄・成田氏長の薦めに応じて、豊臣秀吉の側室となった。
成田氏長は甲斐姫の口添えもあって1591年に下野・烏山城主として20000石の大名になり、江戸時代の烏山藩初代藩主となる。
コメント
コメント ( 2 )
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先日、忍城が舞台になっているのぼうの城のDVDを見ました。
三成に不信感を抱いた農民が堤を破壊した描写では
のちに関ケ原で西軍をうまくまとめられずに敗北する彼の弱点が垣間見えました。
近年は三成が悪者扱いされる作品が多いですが、彼に意地悪な面があったことを証拠づける
最近になって史料などが見つかっているのでしょうか?
そんなことを思いました。
しげさま、いつもありがとうございます。
のぼうの城は、私も購入して持ってます。(^-^)
石田三成の弱点は、やはりなんと言っても家臣団だと思います。
古くからの武家ではないので、譜代の家臣は皆無ですし、新たに家臣になった者も、中には頼りになる武将もいますが、全体的には能力が劣っていたと感じております。
また、たまにコメント賜りますと幸いです。